第一章 行くときは、一本で
白い札は、いつも音もなく現れる。
それでもオリュカには、誰かが立ち止まった気配がわかった。紙の広い余白に、ほんの小さな重みが生まれるのだ。案内所の床が一度だけたわみ、高い棚になった見出しの面が、遠くでふわりと起き上がる。
今日の札には、こう書いてあった。
「どこから読めばいい?」

オリュカは青い翼を開いた。折り面を渡る光が、シアンから深い青へと移る。黄色い胸の前で、しおりの先がぴんと伸びた。
「あ。ここで立ち止まったんだね」
見出しの回廊には、目立つ入口があった。そこまでの距離なら、ひと飛びで見渡せる。オリュカはうれしくなって、札がどちらへ傾くかを見る前に、翼をその面へ向けた。
「まずは、あそこから読もう」
黄色いしおりが、細い橋のように走った。余白の入口から見出しまで、途中で曲がらない。きれいな道だ、とオリュカは思う。足元で青い小さな角が一度だけ立ち、広げた翼の影の下へ隠れたことには気づかなかった。
見出しの面へ着くと、しおりの先がちょん、と縁に触れた。オリュカは振り返って札を見た。入口は見える。黄色い道も残っている。
ところが、一歩戻そうとした足が宙で止まった。
こちら側から見ると、黄色い道は薄い紙の縁になっている。その縁は前へ歩くときには開き、戻る向きへ重みをかけると閉じた。足を置く幅が、ない。
「……あれ?」
もう一度、翼で渡ってみようか。オリュカが身をかがめると、下の紙から、こつ、と硬い音がした。
「そこ、踏まないで」
見下ろすと、低い折り段の陰から小さな亀が出てきた。六角の甲羅の縁には、短いページタブがいくつも並んでいる。亀はそのうち一枚を揃え、オリュカの足元を指した。
「帰るためのタブが、下にある」
「ごめん。踏んじゃった?」
「隠れた。まだ、そこにある」
甲羅の端を一度、二度と触ってから、亀は細い折り目に鼻先を寄せた。隣で同じ線を覗いたオリュカには、青い影が黄色の下に続いているように見えた。

「引き出せそう。翼を入れるね」
返事を待たずに差し込むと、紙の層がぱらりと跳ねた。青いタブは一枚、二枚とめくれ、どれが入口に向かう印なのかわからなくなる。亀は小さく息を吸った。
「待って」
オリュカは翼を止めた。甲羅の上の印が、たった今そろえたばかりなのに、違う高さへずれていた。
「ごめん。もっと急いだら、戻れると思って」
「急ぐと、角が混ざる」
「じゃあ、全部調べてから動く?」
亀は口を閉じた。何枚も重なった紙を、一枚ずつ確かめようとする。けれどオリュカのしおりの先は見出しに届いたままで、問いの札は入口にある。誰かが読み始めるための案内は、止まったままだ。
亀もそれに気づいたらしい。いちばん小さなタブを二度触り、顔を上げた。
「全部、は遅い。いま必要なのは、来た角」
オリュカは翼を引いた。かろうじて見える青い影が、黄色い線の左隣をたどっている。さっきまでは、こんなに近くにあったのだ。
「一本で足りると思った」
亀は、行き先を示す黄色を見た。
「行くときはね」
短い返事なのに、オリュカには言い返す言葉がなかった。着いた先で振り向くことを、最初から考えていなかった。
「名前、聞いてもいい?」
「タブリ」
「タブリ。ここを押さえてくれる? 今度は、ゆっくり動かす」
タブリは小さくうなずき、折り目の起点に甲羅の印を置いた。オリュカは翼の先で黄色いしおりをほんの少し持ち上げる。下から現れた青いタブを、タブリが指のような短い前足で起こした。

二本の印は並んだ。前へ行く線と、戻るための小さな角。オリュカが歩いて見出しの縁に触れ、そこから青い角を見ながら折り返す。タブリも遅い歩幅で後に続いた。入口まで戻れたとき、甲羅の下で一度だけ足踏みが鳴った。
「できた!」
オリュカの翼が先に開く。タブリがその翼の影を見て、そっと青いタブをもう一段起こした。
今度は見えた。オリュカは気恥ずかしくなって、翼を半分だけ畳む。
入口の札が、外側からめくられたページの動きに合わせて、見出しのほうへわずかに傾いた。二人は札に手を触れず、その傾きを見届けた。しおりが本当の案内になるのは、ここからなのだとオリュカは初めて知った。
やがて視線が本文の方へ移る気配がした。二人が余白へ退くと、案内所はゆっくり畳まれた。最後に別の棚の端から、青い小さな角が一枚、すべり落ちるのが見えた。
タブリの甲羅の印ではなかった。
「あれも、帰り道?」
「まだ、わからない」
紙が閉じる直前、二人は同じ方を見ていた。オリュカはすぐ飛び出したくなったが、今度は足元のタブが起きたままであることを確かめた。
目次(全8章)
- 第一章行くときは、一本で
- 第二章三つの小道
- 第三章白いままの棚
- 第四章まっすぐの友だち
- 第五章もどれない地図
- 第六章ひらきすぎた入口
- 第七章線のとなりの白
- 第八章次のページへ
このお話は、Ukrainaviの案内役オリュカと仲間たちが登場する創作の物語です。実在するウクライナの場所や出来事を描いたものではありません。挿絵は、生成画像をもとにした創作イラストです。