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文化・歴史/解説

ウクライナで最初の紙幣と切手を描いた、ヘオルヒー・ナルブト

2026年3月9日は、グラフィック・デザイナーのヘオルヒー・ナルブト(1886〜1920年)の生誕140年でした。ウクライナ人民共和国の最初の紙幣と切手の図案を描き、1917年にキーウで開かれた美術アカデミーで教え、のちに学長を務めた人です。紙幣、国章、文字、本に残した仕事と、34年の生涯をまとめます。

画像:Ukrainavi

オリュカのひとこと

黄色い100カルボヴァネツ紙幣には、どんなあだ名がついたのでしょう。「紙幣と切手を描く」の節で確かめられます。

黄色い紙に、17〜18世紀のウクライナ・バロックの飾り模様。まん中には「100カルボヴァネツ」の文字。1917年12月にキーウの印刷所で刷られたこの紙幣は、ウクライナ人民共和国(УНР)が初めて出した紙幣で、ウクライナ国家記憶研究所(УІНП)によれば、三叉戟(トルィズーブ)を描いた最初の紙幣でもありました。図案を描いたのは、グラフィック・デザイナーのヘオルヒー・ナルブト(Георгій Нарбут)です。

ウクライナ最高会議(議会)は、2025年12月18日の決議第4748-IX号で、2026年3月9日をナルブトの生誕140年として国で記念する日に挙げました。決議はナルブトを「最初のウクライナの国家の標章、УНРの紙幣と郵便切手の作者」と書いています。34年の生涯に、紙幣、切手、国章、文字、本の装丁と、国が生まれるときに必要な「かたち」を次々に描いた人です。

チェルニーヒウ県の農場から、サンクトペテルブルクへ

『現代ウクライナ百科事典』(ЕСУ。ウクライナ国立科学アカデミーとシェウチェンコ学術協会が編む)によれば、ナルブトは1886年2月25日(現在の暦で3月9日)、ロシア帝国チェルニーヒウ県フルーヒウ郡の農場ナルブティウカに生まれました。いまのスームィ州にあたります。名はヘオルヒーのほか、ユーリー、イェホルとも呼ばれました。

1906年にフルーヒウのギムナジウムを出て、サンクトペテルブルク大学の文学部に入ります。美術は、画家イヴァン・ビリービンとムスティスラフ・ドブジンスキーのもとで個人的に学びました(ЕСУ、Internet Encyclopedia of Ukraine〔カナダ・アルバータ大学のウクライナ研究所=CIUS発行。以下IEU〕)。1909年にはミュンヘンのシモン・ホローシの画塾で数か月学んでいます。

サンクトペテルブルクでは芸術家の集まり「芸術世界(ミール・イスクーストヴァ)」に加わり、クルィロフの寓話(1912年)やアンデルセンの童話の挿絵、本の表紙で名を上げました(IEU)。紋章と影絵(シルエット)に強い関心を持ち、「小ロシア」(当時の帝国がウクライナを呼んだ名)の紋章の本(1914年)や、ヘーチマン(コサックの首長)たちの紋章の本(1915年)の図版を手がけています。1914年にはライプツィヒの国際印刷・グラフィック展で金メダルを受けました(ЕСУ)。

1917年、キーウの美術アカデミーへ

1917年の二月革命のあと、ナルブトはウクライナに戻ります(IEU)。この年、キーウでは中央ラーダ(ウクライナの自治政府)のもとで、ウクライナで初めての美術の高等教育機関「ウクライナ美術アカデミー」がつくられました。IEUの「ウクライナ国立美術アカデミー」の項目によれば、規約は1917年11月18日に中央ラーダが承認し、11月22日に開校しています。

ナルブトは創設者の一人で、グラフィック・アートの教授になりました(ЕСУ)。学長になった年は、ЕСУとIEUの美術アカデミーの項目が1919年(1919〜20年)、IEUのナルブトの項目が1918年2月と書いていて、資料によって違います。教え子には、のちにウクライナのグラフィック・アートを担うパウロ・コウジュン、ロベルト・リソウスキー、オレクサンドル・ロゾウスキーらがいます(IEU、ЕСУ)。

IEUは、ナルブトが画家ミハイロ・ボイチューク、ヴァスィリ・クリチェウスキーとともに、ウクライナ美術の「民族の様式」の復興を始めた一人だと評価しています。現在のウクライナ国立美術建築アカデミー(НАОМА)は、このアカデミーを自らの始まりとし、ナルブトを歴代の学長の一人に数えています。

紙幣と切手を描く

УІНПによれば、中央ラーダは1918年1月1日(当時の暦で1917年12月19日)、国の紙幣を出すための暫定の法律を定めました。最初の100カルボヴァネツ紙幣は、1917年12月にキーウのヴァスィリ・クリジェンコの印刷所で刷られ、1918年1月5日に使われ始めました。その図案がナルブトの作品です。

УІНПはこの紙幣について、次のように説明しています。額面の文字は表にウクライナ語、裏にウクライナに住む三つの大きな少数民族の言葉(ロシア語、ポーランド語、ユダヤ系の住民の言葉)で書かれていた。黄色い紙だったので「目玉焼き」とあだ名された。急いで刷ったため、この版はすべて裏面が逆さまに刷られていた。質の悪い印刷で偽札が出回り、まもなく発行が止められた。

1918年3月1日、中央ラーダは新しい通貨単位「フリヴニャ」を定める法律を採択します。1フリヴニャは100シャーフで、2フリヴニャが1カルボヴァネツにあたるとされました。УІНПによれば、このとき出すことになった紙幣のうち、2フリヴニャはクリチェウスキー、10・100・500フリヴニャはナルブトが図案を描いています。紙幣はドイツで刷られ、実際に使われ始めたのは、同じ年に政権を握ったヘーチマン、パウロ・スコロパツキーのもとでした。

紙幣図案УІНПの説明
100カルボヴァネツ(1917年12月印刷、1918年1月5日から流通)ナルブトウクライナ・バロックの飾り模様。三叉戟を描いた。4つの言葉で額面を書いた
2フリヴニャ(1918年)ヴァスィリ・クリチェウスキー
10フリヴニャ(1918年)ナルブト
100フリヴニャ(1918年)ナルブト
500フリヴニャ(1918年)ナルブト若い国の象徴としての女性の顔。「ホルピンカ」とあだ名された
出典:ウクライナ国家記憶研究所「歴史の暦」の1918年1月5日と3月1日の項。2026年9月に確認。

硬貨の代わりに使われた「切手の形をしたシャーフ」は、1918年7月8日、スコロパツキーの政権のもとで出回りました。注文したのがУНРの時代だったため、「ウクライナ人民共和国」の文字がそのまま残っています(УІНП)。НАОМАは、この1918年のシャーフの図案をアントン・セレダとナルブトの作品としています。

『大ウクライナ百科事典』(ВУЕ)は、ナルブトを「最初の国家の標章の作者」とし、УНРの紙幣とともに、ヘーチマン政権の「ウクライナ国」の国章と国璽の図案を挙げています。ЕСУは、1917〜20年に小国章に手を加え、キーウ市の紋章を2案つくったと書いています。三叉戟そのものの由来は国旗・国章・国歌の記事で説明しています。

オリュカのひとこと

「ナルブトの字体」は、どんな伝統にもとづく文字なのでしょう。アルファベットの連作の説明を読んでみましょう。

文字と本、『ウクライナのアルファベット』と『エネイーダ』

IEUによれば、ナルブトは1917年と1919年に、ウクライナ語のアルファベットを一文字ずつ描いた絵と飾り文字の連作をつくりました。コサック、ウクライナ・バロック、民衆芸術の模様を使ったもので、ЕСУは、ウクライナ・バロックの伝統にもとづくこの字体を「ナルブトの字体」と呼んでいます。

本や雑誌の装丁も続けました。歴史雑誌『ナーシェ・ムィヌーレ(私たちの過去)』、文芸誌『ゾーリ』、美術誌『ムィステツトヴォ(芸術)』などの表紙と図版です(IEU、ЕСУ)。IEUが1917年以後の最もすぐれた作品の一つに挙げるのが、1919年に出たイヴァン・コトリャレウシキーの『エネイーダ』の口絵(グワッシュ)です。『エネイーダ』の刊行の歴史はエムス法令の記事ウクライナ文学の記事で紹介しています。

34歳の死

ナルブトは1920年5月23日、キーウで亡くなりました(ЕСУ、IEU)。ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の年表は、キーウの新聞『フロマヂシケ・スローヴォ』の1920年5月26日の記事をもとに、この日の死を記録しています。IEUによれば、死因はチフスでした。

ЕСУによれば、キーウでは1923年と1926年に遺作展が開かれました。作品はキーウ、ハルキウ、スームィなどの美術館に収められています。息子のダヌィロ・ナルブト(1916〜1998年)も画家で、最高会議の同じ決議は、2026年1月22日を彼の生誕110年に挙げています。

出典と記事の記録出典 9件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Постанова Верховної Ради України № 4748-IX «Про відзначення пам'ятних дат і ювілеїв у 2026-2027 роках»2025年12月18日。2026年3月9日のナルブト生誕140年と説明文、1月22日のダヌィロ・ナルブト生誕110年
    発行:Верховна Рада України(zakon.rada.gov.ua) 確認日:2026-09-24
  2. Нарбут Георгій ІвановичС. І. Білокінь。1886年2月25日〔3月9日〕生・1920年5月23日没、ナルブティウカ、学歴、ビリービンとドブジンスキー、ミュンヘン、1914年の金メダル、美術アカデミーの創設者・教授・1919年からの学長、字体、小国章、キーウの紋章、紙幣と切手、雑誌、遺作展、教え子。第22巻、2020年
    発行:Енциклопедія Сучасної України 確認日:2026-09-24
  3. Narbut, Heorhii1886年3月9日生・1920年5月23日没、1909年のミュンヘン、芸術世界、紋章の本、1917年9月の教授任命と1918年2月の学長、УНРの紙幣・切手・印章、アルファベットの連作〔1917・1919年〕、1919年の『エネイーダ』の口絵、チフス。1993年刊行の第3巻の項目
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  4. Ukrainian State Academy of Arts1917年11月18日の規約承認と11月22日の開校、学長の一覧〔ナルブトは1919〜20年〕、教員。2017年更新
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  5. Нарбут, Георгій Іванович最初の国家の標章の作者、УНРの紙幣、ウクライナ国の国章と国璽
    発行:Велика українська енциклопедія 確認日:2026-09-24
  6. 1918, з'явилися в обігу перші українські банкноти – карбованці УНР1918年1月1日の暫定法、100カルボヴァネツの印刷と図案、三叉戟、4つの言葉、あだ名、逆さの裏面、500フリヴニャの「ホルピンカ」、1918年7月8日のシャーフ
    発行:Український інститут національної пам’яті 確認日:2026-09-24
  7. 1918 - закон про грошову одиницю УНР1918年3月1日の法律、1フリヴニャ=100シャーフ、2・10・100・500フリヴニャの図案の作者、ドイツでの印刷
    発行:Український інститут національної пам’яті 確認日:2026-09-24
  8. Георгій Нарбутウクライナ美術アカデミーの学長〔1919〜1920年〕、1918年のシャーフの図案をセレダとナルブトの作とする写真説明
    発行:Національна академія образотворчого мистецтва і архітектури 確認日:2026-09-24
  9. 23 травня 1920キーウでナルブト死去。出典『Громадське слово』1920年5月26日。『Україна: хроніка ХХ століття. Рік 1920』2005年
    発行:Інститут історії України НАН України 確認日:2026-09-24

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