700人のコサックを逃がした娘の歌。叙事歌ドゥーマ
決まった節を持たず、語るように演じられたウクライナの叙事歌ドゥーマ。捕虜を逃がした娘マルーシャ・ボフスラウカ、黒海の嵐で罪を告白するオレクシー・ポポヴィチの筋を1920年の本文から読み、最も古い記録と1908年の録音までを事典の記述でたどります。
オリュカのひとこと
決まった節を持たない歌は、どう語り継がれてきたのでしょう。ドゥーマという文芸を最初の見出しで知れます。
黒海の岸の石の牢に、700人のコサックが30年間とらわれている。そこへ、捕虜としてトルコに連れてこられた娘が訪ねてきて、「キリスト教の国では、今日は何の日か」と問いかける――。ウクライナの叙事歌「ドゥーマ」(дума、複数形 думи)のひとつ、「マルーシャ・ボフスラウカ」はこう始まります。
ドゥーマは、コブザールと呼ばれる旅の歌い手たちが、バンドゥーラなどの伴奏で演じてきた歌です。楽器と歌い手については旅をした目の見えない歌い手コブザールと、楽器バンドゥーラで扱いました。この記事では歌の本文のほうを、カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)、ウクライナ国立科学アカデミーなどの『ウクライナ現代百科事典』(ЕСУ)、民俗学者フィラレト・コレッサ編『ウクライナ民衆のドゥーマ』(Українські народні думи、リヴィウ、1920年)の本文で読みます(2026年9月時点)。
節の形を持たない、長い語り
IEUの「Duma」の項目によれば、ドゥーマは16〜17世紀のコサックの時代の出来事を題材にした、民衆に由来する叙事と抒情の作品です。決まった節(連)の形を持たず、話の展開に合わせた長さのそろわない区切りでできていて、1行の長さは4音節から40音節までばらつきます。区切りのひとつひとつが、ひとまとまりの考えを言い切る文になっている、と同じ項目は説明しています。
韻も独特です。IEUは、ふつう動詞が韻を踏み、それで何行かを一つに束ねると書いています。ЕСУの「Дума」の項目(執筆 ソフィヤ・フルィツァ)は、1編がおよそ200〜300行の大きな作品で、区切りのまとまりは歌い手たちのあいだで「ウストゥプィ」(уступи)と呼ばれた、としています。
言い回しにも型があります。ЕСУによれば、始まりには「ザプラチカ」(заплачка)と呼ばれる決まった導入があり、「澄んだ鷹が鳴いているのではない、それは息子が父と母に便りを送っているのだ」のような、否定から入る比べ方がよく使われます。終わりは「神よ、われらを重い囚われから解き放ちたまえ」のような、祈りと祝福の決まり文句で閉じます。「泣き、むせび泣く」(плаче-ридає)のように似た意味の語を重ねるのも、IEUとЕСУがそろって挙げる特徴です。
何が歌われたか
IEUは、ドゥーマを二つの系統に分けています。古い系統はタタールとトルコとの戦いを歌うもの、新しい系統はポーランドとの戦い、とくにボフダン・フメリニツキーの時代を歌うものです。ЕСУは、およそ40の話の筋と、300を超える異文が知られているとしています。
| 系統 | まとまり | 例(IEU・ЕСУが挙げるもの) |
|---|---|---|
| 古い系統(タタール・トルコとの戦い) | トルコでの捕囚 | 「アゾフからの三兄弟の逃亡」「マルーシャ・ボフスラウカ」 |
| コサックの英雄的な死 | 「サマーラの兄弟」「イヴァン・コノウチェンコ」「フヴェディル・ベズリドヌィ」 | |
| 捕囚からの解放・遠征からの帰還 | 「サミーロ・キシカ」「オレクシー・ポポヴィチ」 | |
| 暮らしの教え | 「寡婦と三人の息子」「兄と妹」 | |
| 新しい系統(ポーランドとの戦い) | フメリニツキーの時代 | 「フメリニツキーとバラバシ」「コルスンの戦い」 |
| 社会を歌うもの | 「ハンジャ・アンドィベル」「コサックのホロタとタタール人の一騎打ち」 |
オリュカのひとこと
娘マルーシャは、コサックたちをどうやって逃がしたのでしょう。本文が引く原本の場面で確かめられます。
マルーシャ・ボフスラウカ――囚われのコサックを逃がした娘
フィラレト・コレッサ編『ウクライナ民衆のドゥーマ』(Українські народні думи、リヴィウ、1920年)は、73〜74ページにこのドゥーマを載せています。19世紀の作家パンテレイモン・クリーシの『南ルーシ覚え書』(Записки о Южной Руси)に載った、ハルキウ県ボホドゥヒウ郡の村で目の見えない歌い手から書き取られた異文です。
Що на Чорному морі, / На камені біленькому, / … / Що у тій то темниці пробувало сімсот козаків, / Бідних невольників.
フィラレト・コレッサ編『ウクライナ民衆のドゥーマ』(Українські народні думи、リヴィウ、1920年)、73ページ(冒頭の一部)
「黒海の、白い石の上に(石の牢があり)、その牢には700人のコサック、哀れな捕虜たちがいた」という書き出しです。以下、同じページからの筋をまとめます。
- 捕虜の娘マルーシャ(ボフスラウの司祭の娘)が牢に来て、今日は何の日かと尋ねる。30年日の光を見ていないコサックたちは、分からないと答える
- 娘が「今日は復活祭の前の土曜日、明日は復活祭」と告げると、コサックたちは地に伏して、祭りの日を知らせた娘をののしる
- 娘は、主人のトルコ人がモスクへ出かけるとき自分に鍵を預けるので、そのとき牢を開けると約束する
- 復活祭の日、娘は牢を開けてコサックを逃がし、ボフスラウの両親にこう伝えてほしいと頼む。「身代金のために財産を売らないで。わたしはもうトルコの人になったのだから」
コレッサの注によれば、「ボフスラウカ」はロス川のほとりの町ボフスラウの出身、という意味です。IEUの「Marusia Bohuslavka」の項目は、この娘が実在した証拠はなく、捕虜のコサックを何らかの形で助けた奴隷の娘たちを合わせた像だろう、と書いています。コレッサも解説の中で、「30年、日の光を見なかった」は詩の誇張と見るべきだとしています。
黒海の嵐とオレクシー・ポポヴィチ
同じ本の92〜95ページには、「オレクシー・ポポヴィチ」が載っています。黒海の嵐の場面から始まるので、「黒海の嵐」の名でも知られるドゥーマです。
Ой, по Чорному морю, / Ой, на каміні біленькому, / Там сидів сокіл ясненький, / Жалібненько квилить-проквиляє
フィラレト・コレッサ編『ウクライナ民衆のドゥーマ』(Українські народні думи、リヴィウ、1920年)、92ページ(冒頭の4行)
ここでも「黒海の、白い石の上」から始まります。石の上の鷹が悲しげに鳴き、海が荒れ、コサックの舟は三つに砕かれる。一つはトルコの地へ、一つはドナウの河口へ流され、残る一つが沈みかけます。この舟の隊を率いる者が、神と黒海とコサックの隊長に罪を告白せよと呼びかけます。
皆が黙るなか名乗り出たのは、日に三度聖書を読み、皆に教えてきた書記のオレクシー・ポポヴィチでした。彼は、自分の首に石を結んで海に沈めてくれと言い、なぜいちばん罪が重いのかと問うコサックたちに、両親の祝福を受けずに出征したこと、兄と姉をないがしろにしたこと、町の子どもたちを馬で踏みつけたこと、教会の前を帽子も取らずに通り過ぎたことを告白します。告白すると嵐は静まり、コサックはひとりも欠けずにテンドラ島に打ち上げられます。オレクシーは「父と母の祈りは、海の底からも人を救い出す」と説き、歌は祝福の言葉で終わります。
コレッサの注によれば、この異文は歌い手フナト・ホンチャレンコからの録音をもとにしたものです。歌の地理は黒海の北西、ドニプロの河口からドナウの河口までに限られていて、19世紀の研究者アントノヴィチとドラホマノウは、コサックが黒海を舟で荒らし始めた時代、つまり16世紀の終わりにこの歌ができたと考えた、とコレッサは紹介しています。
いつから記録があるか
ドゥーマに触れた最も古い記録として二つの事典が挙げるのは、ポーランドの年代記作者スタニスワフ・サルニツキの『年代記』です。ЕСУによればこの本は1587年にクラクフで出ており、IEUはその中の1506年の項に、ワラキアへの遠征で戦死した二人の兄弟を悼んで悲しい歌、ドゥーマが作られた、という記述があると書いています。
本文が書き取られた最も古い例について、ЕСУは、文学史家ムィハイロ・ヴォズニャクがコンドラツキの歌集(1693年)の中に見つけた「コサックのホロタ」を挙げています。印刷されたのは19世紀で、ЕСУによれば、1819年にムィコラ・ツェルテレウがサンクトペテルブルクで出した歌集が9編を初めて載せ、「ドゥーマ」という用語を文献に持ち込んだのは歴史家ムィハイロ・マクスィモヴィチでした。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1587年 | サルニツキの『年代記』がクラクフで出る。1506年の項にドゥーマの記述(IEU・ЕСУ) |
| 1693年 | 「コサックのホロタ」の本文が書き取られた歌集(ЕСУ) |
| 1819年 | ツェルテレウの歌集に9編が載る(ЕСУ) |
| 1874〜1875年 | アントノヴィチとドラホマノウが注釈つきの歌集2巻を出す(IEU) |
| 1908年 | ドゥーマを録音するための調査(ЕСУ「Колесса Філарет」、IEU「Honcharenko, Hnat」) |
| 1910・1913年 | コレッサ『ウクライナ民衆のドゥーマの旋律』2巻(IEU・ЕСУ) |
| 1927〜1931年 | カテルィナ・フルシェウシカ『ウクライナ民衆のドゥーマ』2巻(IEU・ЕСУ) |
オリュカ
ドゥーマを蓄音機で残そうとしたのは、誰の思いつきだったのでしょう。
タブリ
呼びかけた人の名前は、この見出しの下に書いてあるよ。
ヨリクネ
レーシャ・ウクラインカのほかの仕事は、こっちの記事にも寄り道できるよ。
1908年、声を録音する
ЕСУの「Колесса Філарет」の項目によれば、民俗学者フィラレト・コレッサ(1871〜1947年)は1908年、詩人レーシャ・ウクラインカと、その夫で民俗音楽の研究者クリメント・クヴィトカの発意で、ポルタヴァ地方にドゥーマを蓄音機(フォノグラフ)で録音しに出かけました。
IEUの「Honcharenko, Hnat」の項目は、同じ1908年にレーシャ・ウクラインカがハルキウ地方の歌い手フナト・ホンチャレンコをヤルタへ連れて行き、クヴィトカと画家オパナス・スラスチオンの助けを借りて、彼のドゥーマを蝋管に録音したと書いています。コレッサはこれらの録音を楽譜に起こし、『ウクライナ民衆のドゥーマの旋律』(Мелодії українських народних дум)2巻として1910年と1913年に出しました。レーシャ・ウクラインカについては200フリヴニャ紙幣の詩人レーシャ・ウクラインカと、戯曲『森の歌』で扱っています。
コレッサは、ドゥーマは民衆から生まれたもので、弔いの嘆き歌(голосіння)に由来すると考えました。ЕСУは、どちらも朗唱の形をとる点ではうなずけるが、内容と役割は大きく違うので、この説には部分的にしか同意できない、と添えています。IEUは別の有力な説として、民衆の歌に16〜17世紀の学校の音節詩の影響が加わったとするパウロ・ジテツキーの見方を紹介しています。コレッサは、12世紀の『イーゴリ遠征物語』とドゥーマのつながりにも触れた研究者で、その点は1812年に原本が焼けた叙事詩『イーゴリ遠征物語』で扱っています。
本で読むドゥーマ
IEUは、ドゥーマの研究が学問として頂点に達したのは、カテルィナ・フルシェウシカの『ウクライナ民衆のドゥーマ』2巻(1927〜1931年)だとしています。翻訳については、ポーランド語(1837年)、ドイツ語(1845年)、フランス語(1876年)、英語(1916年)の訳があり、最も充実した集成の訳として、フランス語のマリー・シェレール訳(1947年)と、英語のユーリー・タルナウシキーとパトリシア・キリナの訳(1979年)を挙げています。
ドゥーマの旋律を最初に研究したのは作曲家ミコラ・ルィセンコで、歌い手オスタプ・ヴェレサイの演奏を論じています(作曲家ミコラ・ルィセンコと、生前に上演されなかった『タラス・ブーリバ』)。コサックの時代の歌で、いまも村の合唱で歌い継がれているものは歌い出す人と高い声がいないと歌えない、ドニプロペトロウシク州のコサックの歌で紹介しました。
オリュカ
ドゥーマの旋律を最初に調べたのは、どんな人だったのでしょう。
タブリ
作曲家の名前は、この段落に書いてあるよ。
ヨリクネ
村でいまも歌い継がれているコサックの歌には、この段落の記事からも寄り道できるよ。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Duma定義、形式、4〜40音節、動詞の韻、朗唱と伴奏、起源の説、サルニツキの1506年の項、二つの系統と例、収集と研究の歴史、翻訳。執筆 Petro Odarchenko、紙版は1984年の第1巻
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-24 - Дума200〜300行、「ウストゥプィ」、1587年のサルニツキ、1693年の「コサックのホロタ」、約40の筋と300以上の異文、始まりと終わりの決まり文句、1819年のツェルテレウ、マクスィモヴィチ。執筆 С. Й. Грица、第8巻、2008年
発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-24 - Колесса Філарет Михайлович生没年、1908年のポルタヴァ地方での録音の調査、『ウクライナ民衆のドゥーマの旋律』、弔いの歌に由来するという説とЕСУの評価。執筆 С. Й. Грица、第14巻、2014年12月最終改訂
発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-24 - Kolessa, Filaret生没年、ドゥーマは民衆に由来するという立場、1910・1913年の旋律集。執筆 Wasyl Wytwycky、2004年改訂
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-24 - Honcharenko, Hnat1908年、レーシャ・ウクラインカがヤルタで蝋管に録音、クヴィトカとスラスチオン、コレッサの楽譜化。紙版は1988年の第2巻
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-24 - Marusia Bohuslavka筋の要約、実在の証拠がないこと。紙版は1993年の第3巻
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-24 - Колесса Ф. Українські народні думи. Перше повне видання з розвідкою, поясненнями, нотами і знимками кобзарів. Львів: Просвіта, 1920(「マルーシャ・ボフスラウカ」73〜74ページと注、「オレクシー・ポポヴィチ」92〜95ページと注、「コサックのホロタとタタール人の一騎打ち」152〜153ページ)。トロント大学所蔵本のデジタル化
発行:Internet Archive 確認日:2026-09-24
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