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ウクライナの人・文化・社会・未来を、日本と世界につなぐ

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記事一覧

  1. 日本とのつながり/解説

    大鵬の父から獅司、安青錦まで。相撲協会の記録に見るウクライナ

    昭和の横綱・大鵬の父は、ウクライナの村に生まれた人でした。2026年9月場所の時点で、ウクライナを出身地とする力士は前頭の獅司と大関の安青錦の二人です。日本相撲協会の記録と、大鵬の父をサハリンの公文書からたどった研究をもとに、3人の記録を並べます。

  2. 日本とのつながり/解説

    1920年、敦賀に着いた「未来派の父」。画家ブルリュークの日本の2年

    1920年10月、ハルキウ県生まれの画家ダヴィド・ブルリュークが船で敦賀に着きました。東京の「日本に於ける最初のロシア画展覧会」、小笠原での暮らし、日本の若い画家たちとの共著まで、約2年の足跡を当時の記録を調べた研究と百科事典からたどります。

  3. 社会を知る/解説

    リヴィウのアルメニア大聖堂と、町のアルメニア人

    リヴィウのアルメニア大聖堂は1363年に建て始められ、何世紀にもわたって町のアルメニア人の共同体の中心でした。自分たちの法、ローマとの合同の年をめぐる三つの説、1945年の断絶と2003年の聖別までを、事典と国勢調査から見ます。

  4. 文化・歴史/解説

    チェルニーヒウの救世主変容大聖堂と、1036年の年代記

    チェルニーヒウ公ムスティスラウが建て始めた救世主変容大聖堂は、1036年の年代記の項に「馬上で手の届く高さ」まで積み上がっていたと書かれています。仕上がった年、「最も古い」という言い方の条件、18世紀の改築と20世紀の保護を、事典と年代記から見ます。

  5. 文化・歴史/解説

    キーウの黄金の門と、1982年の「1500年祭」

    キーウの黄金の門は、年代記の1037年の項に初めて現れるヤロスラウ賢公の町の正門です。いま見える塔と教会は、1982年の「キーウ建設1500年」に合わせて廃墟の上に建てられた覆い屋です。事典ごとの呼び方と、「1500年」が何を数えたのかを見ます。

  6. 社会を知る/解説

    地図にあるのは1,500km余り。オデーサの地下の石切り場

    オデーサの地下に広がる「カタコンベ」は、19世紀前半から町を建てる石を切り出した跡です。よく聞く総延長2,500kmは事典でも見積もりとして書かれ、記述され地図にされた坑道は1,500km余りとされます。呼び名、数字の出どころ、1963年からの自然記念物と化石の洞窟を事典と大学、市の資料から並べます。

  7. 文化・歴史/解説

    会員の2段階の投票で選ぶ「ゾロタ・ジガ」とウクライナ映画アカデミー

    ウクライナの国民映画賞「ゾロタ・ジガ」は、映画の作り手の団体ウクライナ映画アカデミーの会員の投票で、多くの部門の受賞者が決まります。2026年7月には第10回が開かれました。会員の資格、2段階の投票、全面侵攻で遅れた回、米国アカデミー賞に出す作品を選ぶ委員会の決まりを、アカデミーの規程と発表から並べます。

  8. 文化・歴史/解説

    公開まで20年待った『短い出会い』と、監督キーラ・ムラトワ

    1967年にオデーサ映画撮影所で完成した『短い出会い』は、およそ20年ほとんど上映されず、1971年の『長い見送り』とともに1987年に公開されました。監督キーラ・ムラトワの生涯を、事典、大統領令、ベルリン国際映画祭の記録で追い、資料ごとに違う年も並べます。

  9. 文化・歴史/解説

    記録に残る7年と、語り継がれた話。オプリシュキの頭領ドウブシュ

    18世紀の前半、カルパティアの山地で領主や商人を襲ったオプリシュキの頭領オレクサ・ドウブシュ。「ウクライナのロビン・フッド」とも呼ばれる彼について、事典が記録から書く1738〜1745年の出来事と、1910年に集められた言い伝え、「義賊」という見方の分かれ方を、二つの事典と民俗学の集成から分けてたどります。

  10. 文化・歴史/解説

    フルーヒウからボローニャへ。18世紀ウクライナの作曲家3人

    1771年、フルーヒウ生まれのベレゾウシキーはボローニャのアカデミア・フィラルモニカの試験に通りました。同じ町に生まれたボルトニャンシキーもイタリアでオペラを上演し、キーウのヴェデリは合唱協奏曲を書きました。宮廷聖歌隊へ少年を送った歌の学校から、事典ごとに違う生年や作品の数まで、3人の歩みを三つの事典と学校の記録からたどります。