
記事の分野
文化・歴史
料理、音楽、文学、工芸。ウクライナの文化と、その背景にある歴史。
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ウクライナのクリスマスは1月7日から12月25日へ
ウクライナでは2023年7月の法律で、国の祝日の一覧から1月7日のクリスマスが外れ、12月25日だけが残りました。同じ年の9月には、二つの大きな教会が12月25日に祝う暦へ移っています。法律、教会の暦、家庭の祝い方を分けて、聖夜の12品やコリャードカまで説明します。
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「キエフ」が「キーウ」になった日と、地名の綴りの決まり方
2022年3月31日、外務省はウクライナの首都の呼び名を「キエフ」から「キーウ」に改めました。変わったのは都市の名前ではなく、Київ の書き写し方です。ラテン文字の綴りを定めるウクライナの政府決定、#KyivNotKiev、法令による地名の改称、歴史資料の中の旧表記の扱いを順に見ていきます。
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ウクライナ語とロシア語はどこが違うのか
ウクライナ語とロシア語は同じキリル文字を使いますが、ウクライナ語には і、ї、є、ґ があり、ы、э、ъ、ё がありません。「г」の音、「はい」「いいえ」の語、ポーランド語からの借用にも違いが出ます。帝政期に「方言だ」とされた経緯とあわせて、二つの言語の近さと遠さを説明します。
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クリミア移管から核兵器の放棄まで、戦後ウクライナの半世紀
1946年の飢饉から、1954年のクリミア移管、1986年のチョルノービリ原発事故、1991年の独立と国民投票、1994年のブダペスト覚書、1990年代のインフレと通貨改革までをたどります。1954年のクリミア移管については、公式に示された二つの理由と、研究者が推定する動機を分けて示します。1991年12月1日の国民投票では、27の行政単位のすべてで、投票した人の過半数が独立に賛成しました。
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コサックの自治が終わり、ウクライナ語の出版が禁じられるまで
1648年のフメリニツキーの蜂起から、原本が残っていない1654年のペレヤスラウ協定、1764年のヘーチマン職廃止と1775年のシーチ破壊、1863年と1876年のウクライナ語出版の禁止を経て、第一次世界大戦の直前までをたどります。蜂起のなかでユダヤ人共同体が受けた被害は、推計の違いをそのまま示しています。
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キーウ・ルーシから16世紀まで ── ハールィチ・ヴォルィーニと二つの合同
紀元前5000年ごろのトリピッリャ文化から、黒海沿岸のギリシャ植民市、キーウ・ルーシ、リトアニア大公国、1569年のルブリン合同と1596年のブレスト合同まで、コサックが現れる前のウクライナの地の歴史をたどります。キーウ・ルーシを「単一の古ルーシ民族」の国とする見方は、1930年代にソ連共産党が委嘱した歴史家のパネルが示した公式の枠組みです。フルシェフスキー以来のウクライナ史学は、ハールィチ・ヴォルィーニ公国をキーウ国家の後継とみてきました。
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ソ連の共和国だった七十年と、その間の日本
ウクライナがソ連の一共和国だった時期のうち、1932年の飢饉から1991年の独立までを、同じ年月の日本と並べます。390万人、33,771人、約20万人という数字が、それぞれ誰によってどう数えられたものかを添えています。
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ロシア帝国でウクライナ語の出版が禁じられた翌年、日本では東京大学が開かれた
1876年のエムス法令は、ロシア帝国の中でウクライナ語の本の印刷を禁じました。翌1877年の4月、日本では東京大学が開設されています。禁じられる前に出ていた『エネイーダ』(1798年)と『コブザール』(1840年)から書き起こし、ペリー来航から1919年までを、二つの国の暦の違いに注意しながら並べます。
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シーチが築かれてから壊されるまでの220年、日本は戦国から江戸へ
ドニプロ川にシーチが築かれた1552年ごろから、最後のシーチが破壊された1775年までの約220年を、同じ時期の日本と並べます。シーチは一つの場所ではなく八つありました。ペレヤスラウの合意は原本が残っていません。ポルタヴァの戦いには日付が二つあります。
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平安京から応仁の乱まで、キーウでは何が起きていたか
794年の平安京遷都から1477年に応仁の乱が終わるまで、同じ年月にキーウとその周辺で何が起きていたかを並べます。キーウ・ルーシの始まりとされる882年は、出来事から二百数十年あとに編まれた年代記に依る年号です。日本史の時代区分も、資料によって始まりの年が違います。