コサックの舟「チャイカ」の寸法は、一冊の本から来ている
ザポリッジャのコサックが黒海へ漕ぎ出した舟「チャイカ」。長さや乗員の数の多くは、1660年にルーアンで出たフランス人技師ボープランの本に行き着きます。その本は舟を「チャイカ」とは呼んでいません。舟の作り、事典どうしの数字の違い、ドニプロ川から引き揚げられた舟の扱いを見ていきます。
オリュカのひとこと
コサックの舟「チャイカ」の寸法は、どこから伝わっているのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
ザポリッジャのコサックが、ドニプロ川を下って黒海へ漕ぎ出した舟。ウクライナ語で「チャイカ」(чайка)と呼ばれる舟です。長さ18〜20メートル、50〜60人が乗り、両端に舵があった。事典にはそう書かれています。
ところが、こうした寸法をたどっていくと、多くが17世紀のフランス人技師の一冊の本に行き着きます。しかも、その本は舟を「チャイカ」とは呼んでいません。舟の作りと数字の出どころ、呼び名の移り変わり、ドニプロ川から引き揚げられた舟が何だとされているかを見ていきます。
ボープランの『ウクライナの記述』
その本の著者は、ギヨーム・ル・ヴァスール・ド・ボープランです。ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ史百科事典』(以下、歴史研究所の事典)によれば、ボープランは1600年ごろフランスのディエップに生まれ、1673年12月6日に亡くなった軍事技師・地図製作者です。1630年の終わりから1648年までポーランド王に仕え、クレメンチューク、コダクなど、主にウクライナの地で要塞や城を築きました。1639年には、自分の測量にもとづく最初のウクライナの地図を作っています。
アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の『Internet Encyclopedia of Ukraine』(以下、IEU)によれば、地図の解説として書かれた本は1651年に最初に出て、1660年にルーアンで増補版『Description d’Ukranie』(ウクライナの記述)が出ました。英語訳(1704年)、ドイツ語訳(1780年)、ポーランド語訳(1822年)、ロシア語訳(1832年)が続き、1990年にキーウで注釈つきのウクライナ語版、1993年にハーバード大学ウクライナ研究所から英語版が出ています。
ボープランは、1637〜1638年にはコサックの反乱を鎮める側の軍に加わっていました(IEU、歴史研究所の事典)。コサックを外から、しかも戦った相手として見た人の記述だということは、読むときに覚えておきたい点です。
ボープランが書いた舟の作り方
1660年版のフランス語の本文(ウクライナ語訳は1990年のクラヴェツとボリシュクの訳)では、コサックが海へ出る前に、集合場所でこんな舟を造ると書かれています。
- 長さはおよそ60ピエ、幅は10〜12ピエ、深さは12ピエ。ピエは当時のフランスの長さの単位
- 竜骨(船底の背骨の材)はない。長さ45ピエほどの柳か菩提樹の丸木舟を土台にし、長さ10〜12ピエ、幅1ピエほどの板を、川舟と同じように少しずつ重ねて打ちつけ、上に行くほど広げていく
- 樽ほどの太さの葦の束を、舟の端から端まで舷側に結びつける。水が入っても、この葦のおかげで沈まない
- 舵は両端に一つずつ。舟が長く、逃げるときに向きを変える時間を惜しむため
- 櫂は片側に10〜15本で、トルコの漕ぎ船より速い。帆柱が1本あり、帆は穏やかな天気のときだけ使う。甲板はない
さらに、1艘を60人で造って2週間で仕上げ、2〜3週間で80〜100艘がそろうこと、1艘に50〜70人が乗り、それぞれが銃2丁とサーベルを持ち、舟には小さな大砲(ファルコネット)が4〜6門あったことも書いています。
オリュカのひとこと
舟の大きさは、資料によって数字が違うようです。この見出しの表で見比べられます。
寸法をくらべる
| 項目 | ボープラン(1660年版) | IEU(1984年) | 歴史研究所の事典(2013年) |
|---|---|---|---|
| — | — | — | — |
| 長さ | およそ60ピエ | 18〜20m | 15〜22m |
| 幅 | 10〜12ピエ | 3〜3.5m | 4〜6m |
| 深さ・高さ | 12ピエ | 3.5〜4m | — |
| 乗る人 | 50〜70人 | 50〜60人 | 50〜70人まで |
| 櫂 | 片側に10〜15本 | — | 8〜20対 |
| 大砲 | ファルコネット4〜6門 | 小さな大砲が数門 | ファルコネット2〜6門 |
| 船底 | 竜骨なし。丸木舟が土台 | 船底は1本の幹をくり抜いたもの | 甲板・竜骨なし。幹を土台に板を重ねる |
数字はどこから来ているのか
IEU の項目は短く、寸法を挙げたあとで「ボープランがチャイカの正確な記述を残した」と結んでいます。IEU は寸法の出どころを明記していませんが、項目の中で名前を挙げている記述者はボープランだけで、両端の舵や舷側の葦の束、帆柱といった特徴もボープランの記述と重なります。事典の数字の多くが、ボープランの一冊を土台にしていることがうかがえます。
歴史研究所の事典は、「文字の資料によれば」として、長さ15〜22メートル、幅4〜6メートルと、ボープランより広い幅で書いています。そして、何世紀ものあいだに作りや大きさ、武装は変わりえたと断っています。葦の束の役目についても、「さまざまな資料によれば」として、揺れやすい舟を安定させる(これはボープランの説明)、浮きやすくする、戦いのときの目くらましにする、という三つの説明を並べています。
「チャイカ」は誰の呼び名か
オリュカ
チャイカという呼び名は、ボープランの時代から使われていたのかな。
タブリ
この見出しの下で、昔といまの呼び名の違いを見比べられるよ。
ヨリクネ
呼び名が広まった経緯も、この見出しの下にあるよ。
昔の呼び名と、いまの呼び名
ボープランのフランス語の本文は、この舟を「basteau」(舟)と書いています。ウクライナ語訳も「човен」(舟、ボート)と訳していて、「チャイカ」という語は出てきません。
歴史研究所の事典によれば、「チャイカ」に当たる語は、中世の終わりから近世にかけて地中海の周りで広く使われ、武装した乗り手が操る小さな舟を指していました。トルコ語の şayka、ルーマニア語の saica、イタリア語の saicca、ドイツ語の tschaike などです。19〜20世紀のウクライナの歴史学が、ポーランドのビェルスキ父子の年代記やダスコリの著作での言及をもとに、16〜18世紀のコサックの戦いの舟を「チャイカ」と呼ぶようになった、と同事典は説明しています。
いま「チャイカ」は事典の見出し語にもなっている呼び名ですが、ボープランの時代のフランス語の記述では、ただの「舟」でした。
黒海への遠征
コサックは、この舟でドニプロ川を下り、黒海の向こうの町を襲いました。IEU の「黒海」の項目は、とくに1589年から1621年にかけてコサックが攻勢に出て、軽い舟(チャイカ)でタタールとトルコの沿岸の町、イェウパトリヤ、シノプ、トラブゾン、ドナウ河口のアッケルマン(いまのビルホロド=ドニストロウシキー)、キリヤ、イズマイールの要塞を襲い、コンスタンティノープルの郊外まで荒らしたと書いています。
ボープランは、遠征の段取りも書き残しています。コサックは聖ヨハネの祝日のあとに出発して遅くとも8月の初めには戻ること、ドニプロ河口でトルコのガレー船が待ち構えるため、新月の少し前の暗い夜に出て、ガレー船が入れない葦の茂みに隠れること、そこから36〜40時間でアナトリア(いまのトルコのアジア側)の沿岸に着くこと。帰りには、オチャキウの東で舟を陸に上げて引きずり、ドニプロ川へ運ぶ道や、ケルチ海峡からアゾフ海に入り、ミウス川とサマラ川を経てドニプロ川へ戻る道を使ったといいます。戦いで多くの人と舟を失ったことも、同じ本に書かれています。
ドニプロ川の早瀬と、その下流に築かれたシーチについては、ドニプロ川の六つのダムの記事とシーチが築かれてから壊されるまでの220年の記事で扱っています。
ドニプロ川から引き揚げられた舟は、チャイカなのか
ザポリッジャのホルティツャ島の周りでは、川底から古い舟が引き揚げられています。国立保護区「ホルティツャ」の説明によれば、1736〜1739年の露土戦争のとき、ロシアの艦隊の舟がドニプロの早瀬を越えて黒海に出られず、ホルティツャの岸近くに沈められました。1999年から、それらの舟が川底から引き揚げられるようになり、保護区は「1736〜1739年のコサックの舟」「1737年のドニプロのドゥベリ・シュルプカ(дубель-шлюпка)」「1736〜1739年のブリガンティン」などを18世紀の軍用船として挙げています。保護区によれば、舟を保管する建物は修復の作業場を兼ねていて、博物館としての正式な地位はまだありません。
一方、歴史研究所の事典の「チャイカ」の項目(2013年)は、「今日まで、確かにコサックのものと特定されたチャイカは一つも見つかっていない」と書いています。この項目を書いたコバリヤは、2005年に『「ザポリッジャのチャイカ」:ある発見の物語』という本を共著で出しています(項目の参考文献による)。
保護区の説明する舟は18世紀の露土戦争の時代のもので、ボープランが描いた17世紀前半のチャイカとは時代が違います。引き揚げられた舟を「チャイカ」と呼べるかどうかは、この二つの資料からは言い切れません。
オリュカ
引き揚げられた舟は、コサックのチャイカだと言い切れるのかな。
スウネ
そこはまだ、はっきりしないと本文にあるよ。
タブリ
舟の作りの比較は、上の見出しの表でも見比べられるよ。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Chaika長さ18〜20m、幅3〜3.5m、深さ3.5〜4m、1本の幹の船底、葦の束、両端の舵、帆柱と帆、50〜60人、小さな大砲、ボープランの記述。初出 Encyclopedia of Ukraine vol.1, 1984
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所) 確認日:2026-09-26 - Beauplan, Guillaume Le Vasseur de生没、1630〜48年のポーランド軍、1637〜38年の遠征、1639年の地図、『ウクライナの記述』の各版と翻訳、1990年のウクライナ語版、1993年のハーバード版。執筆 Elie Borschak、2009年更新
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-26 - Black Sea1589〜1621年のコサックの攻勢、チャイカで襲った町
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS。初出 1984年) 確認日:2026-09-26 - ЧАЙКА, невелике судно語の広がり、19〜20世紀の歴史学での呼び名、長さ15〜22m・幅4〜6m、50〜70人、8〜20対の櫂、2〜6門のファルコネット、葦の束の三つの説明、確かにコサックのものと特定されたチャイカは見つかっていないこと、参考文献。執筆 Кобалія Д.Р.、第10巻 2013年
発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-26 - БОПЛАН (Beauplan) Гійом-Левассер де生没、ディエップ、1630年末〜1648年のポーランドでの勤務、築いた要塞、1639年の地図、『ウクライナの記述』の各版。第1巻 2003年
発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-26 - Description d'Ukranie(1660年、ルーアン)のフランス語本文舟の寸法と作り、乗員、ファルコネット、遠征の段取り
発行:Ізборник(電子版) 確認日:2026-09-26 - Г. Л. де Боплан. Опис УкраїниЯ.І. Кравець、З.П. Борисюк 訳、キーウ、1990年。同じ箇所のウクライナ語訳と注
発行:Ізборник(電子版) 確認日:2026-09-26 - Козацькі човни1736〜1739年の露土戦争で沈められた舟、1999年からの引き揚げ、収蔵する舟の一覧、博物館の地位
発行:Національний заповідник «Хортиця» 確認日:2026-09-26
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