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文化・歴史/解説

筆も絵の具も自分で作った画家、カテルィナ・ビロクール

キーウ州の村ボフダニウカで生涯を過ごしたカテルィナ・ビロクール(1900〜1961年)は、学校に通わず、自分で作った筆と絵の具で花を描き始めた画家です。100を超える種類の花を描いた作品、世に出るきっかけになった歌手への手紙、1954年のパリの展示と、よく語られる「ピカソの言葉」の出どころをまとめます。

画像:Ukrainavi

オリュカのひとこと

自分で絵の具をこしらえた画家は、何から色を作ったのでしょう。冒頭の段落に材料が並んでいます。

最初の絵は、炭で描きました。紙ではなく、家で織った布の切れ端の上に。筆は動物の剛毛を束ねて自分で作り、絵の具はビーツ、ニワトコ、カリーナ(ガマズミの仲間)、タマネギ、いろいろな草から自分でこしらえた。ウクライナ国立科学アカデミーとシェウチェンコ学術協会が編む『現代ウクライナ百科事典』(ЕСУ)は、画家カテルィナ・ビロクール(Катерина Білокур)の始まりを、そう書いています。

学校に通わなかった農家の娘は、読み書きも絵も独りで覚え、60年の生涯のほとんどを生まれた村で過ごしながら、花の絵で知られる画家になりました。

ボフダニウカ村で過ごした60年

ビロクールは1900年12月7日、ボフダニウカ村の農家に生まれました。ウクライナの国の百科事典『大ウクライナ百科事典』(ВУЕ)は、この村を「現在のキーウ州ボルィスピリ地区」としています。2003年刊行のЕСУは再編前の地区の名で「ヤホティン地区」と書いています。ЕСУは生年月日を「1900年11月25日(12月7日)」と二つ並べており、前が当時のロシア帝国で使われていたユリウス暦、後ろが現在の暦です(地区の再編については州・地区・フロマーダの記事)。

ВУЕによれば、読み書きは独りで身につけ、幼いころから描き始めました。はじめは炭で古いシャツの切れ端に、のちに画布に描き、画布の下地の塗り方も、筆と絵の具の作り方も自分で覚えています。ウクライナ国家記憶研究所(УІНП)は、国営通信ウクルインフォルムと2025年12月に出した記事で、キーウの演劇の専門学校とミルホロドの美術陶芸の専門学校に入ろうとしたものの、初等教育の修了証が無いことを理由に入れなかったと説明しています。

亡くなったのは1961年で、場所は同じボフダニウカ村です。日付は、Internet Encyclopedia of Ukraine(カナダ・アルバータ大学のウクライナ研究所=CIUS発行。以下IEU)とВУЕが6月10日、ЕСУが6月9日で、資料によって1日の違いがあります。1956年には「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国人民芸術家」の称号を受けました(ВУЕ、ЕСУ)。

歌手への一通の手紙から

ЕСУによれば、ビロクールは1939年まで、ほとんど知られていませんでした。流れを変えたのは、歌手オクサナ・ペトルセンコに宛てた手紙です。これをきっかけにポルタヴァ州の民衆創作の家の職員が絵に関心を持ち、1940年にポルタヴァで作品の展示が開かれ、1941年にはキーウでも展示されました。同じ1941年、ポルタヴァで初めての個展が開かれています。

УІНПの説明では、ビロクールは1940年、ラジオでペトルセンコの歌を聞いて自分の絵を送り、ペトルセンコがそれを詩人パウロ・ティチナと画家ヴァスィリ・カシヤンに見せました。初めての個展の年は、УІНПは1940年、ЕСУは1941年と書いていて、ここにも違いがあります。

同じくУІНПによれば、1941年、第二次世界大戦のなかでキーウの美術館が焼け、そこに展示されていた初期の作品が失われました。失われた数は約11点、資料によっては25点に上るとされています。本人は、焼けた絵を自分の最もよい作品と考えていたといいます。

100種類を超える花

ВУЕによれば、ビロクールは静物画、風景画、肖像画、自画像(1950年、1955年、1957年)を描きました。下絵や習作は描かず、大きな画布でも、いちばん細かい部分から描き始めたといいます。

描かれた花は、ヒマワリ、ダリア、バラ、シャクヤク、ヤグルマギクなど、名前にして100を超えます(ВУЕ)。季節の違う花を一つの画面に並べ、果物や野菜と組み合わせることも多く、ВУЕは、花々が太陽の象徴としてのヒマワリのまわりを回るように置かれた絵として『ツァーリ・コロス』を挙げています。ЕСУは、花が咲いているところと実っているところを同時に描くこうした「自然からのずれ」を、構図のためだけでなく、自然と人の存在についての考えを表すためのものと説明しています。

事典が挙げる主な作品は次のとおりです。題名の日本語は本記事の訳で、年は事典の記載です。

題名(ウクライナ語)日本語の訳資料
Берізка白樺1935年ЕСУ
Квіти за тином垣根の向こうの花1935年ЕСУ
Квіти в тумані霧の中の花1940年ЕСУ
Квіти увечері夕方の花1942年ЕСУ、ВУЕ
Цар-колосツァーリ・コロス(穂の王)1944年、2つ目の版は1949年(ЕСУ)。ВУЕは1949年ЕСУ、ВУЕ
Колгоспне полеコルホーズの畑1948〜49年ЕСУ、ВУЕ
Сніданок朝ごはん1950年ЕСУ、ВУЕ
Гарбузи цвітутьカボチャが咲く1950年ВУЕ
Богданівські яблукаボフダニウカのリンゴ1958〜59年ЕСУ
出典:現代ウクライナ百科事典(ЕСУ、第2巻、2003年)と大ウクライナ百科事典(ВУЕ、2021年公開)のビロクールの項目。『ツァーリ・コロス』の年は両事典で違う。

ビロクールは手紙の書き手でもありました。ЕСУは、美術史家ステファン・タラヌシチェンコ、詩人ティチナ、画家たちに宛てた手紙を、画業の歩みと創作の内側を知るための記録として、また文学として価値があると評価しています。УІНПによれば、タラヌシチェンコ宛ての手紙は78通が残っています。

オリュカのひとこと

よく語られる「ピカソの言葉」は、いつ、どこで言われたものなのでしょう。資料が示していることをこの節で確かめましょう。

1954年のパリと「ピカソの言葉」

ЕСУによれば、1954年、パリの国際展覧会に『ツァーリ・コロス』『白樺』『コルホーズの畑』の3点が出品されました。このうち前の2点はウクライナに戻らず、行方は分かっていません。

この展示について、ЕСУ(2003年)とIEU(2015年に更新)は、いずれもパブロ・ピカソが絵を高く評価したと書いています。УІНПは2025年12月の記事で、ピカソが「われわれにこれほどの腕を持つ画家がいたら、世界じゅうに彼女のことを語らせただろう」と言ったと紹介しています。

ただ、どの資料も、ピカソがいつ、どこで、誰に向けてそう言ったのかを示していません。ピカソ自身の文章や、当時のフランスの新聞などの記録で、この言葉を確かめられる一次資料は確認できませんでした。この言葉は、広く語り継がれてきた評価として読むのが確かです。

УІНПは同じ記事で、ソ連がビロクールを「民衆から出た幸せなコルホーズの画家」の見本として宣伝に使ったことにも触れています。УІНПの説明では、両親はコルホーズ(集団農場)に入らず、本人もコルホーズの一員ではありませんでした。村の役人にスターリンの肖像を描くよう求められて断った、という医師エウヘン・トウストゥハの証言も紹介しています。

作品が収められている美術館

ВУЕによれば、作品の多くは、ポルタヴァ美術館(ヤロシェンコ記念)、キーウの国立ウクライナ民衆装飾美術館、ヤホティン歴史博物館(70点を超える)に収められています。ЕСУは、国立ウクライナ民衆装飾美術館に「ビロクールの間」と呼ばれる大きな展示室があると書いています。IEUも、作品の収蔵先としてこの美術館を挙げています。

1977年、ボフダニウカ村に、ビロクールが1909年から亡くなるまで暮らした家を使った記念館が開かれました。ヤホティン歴史博物館の分館で、家具、絵、蔵書、絵の具や筆、イーゼルなどの品が残されています(ЕСУ、ВУЕ)。1989年には、民衆工芸の作り手に贈る「カテルィナ・ビロクール賞」が設けられました(ВУЕ)。

同じように独学で描き、キーウ州の村で空想の動物や花を描き続けた画家に、マリア・プリマチェンコ(1909〜1997年)がいます(プリマチェンコの記事)。

2022年、ふたたび戦火の近くに

УІНПによれば、ロシアによる全面侵攻が始まった2022年、作品の最大の収蔵先であるヤホティン歴史博物館は、前線に近い危険な位置に置かれました。このときは作品を間に合うように運び出し、守ることができたとしています。УІНПは、ウクライナの美術館に残るビロクールの作品を約300点としています。

出典と記事の記録出典 5件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Bilokur, Kateryna1900年12月7日生・1961年6月10日没、独学の民衆装飾画、1954年のパリの国際展で3点、ピカソの評価の記述、国立ウクライナ民衆装飾美術館、1959・1975・2010年の画集。2015年更新
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24
  2. Білокур, Катерина ВасилівнаН. І. Велігоцька。生没年月日と場所、1956年の人民芸術家、独学、下絵を描かないこと、100を超える花、作品と年、収蔵先、1977年の記念館、1989年の賞。2021年4月公開
    発行:Велика українська енциклопедія 確認日:2026-09-24
  3. Білокур Катерини музей-садиба, меморіальний музей1977年、ボフダニウカ村、ヤホティン歴史博物館の分館
    発行:Велика українська енциклопедія 確認日:2026-09-24
  4. Білокур Катерина ВасилівнаМ. Ф. Кагарлицький。1900年11月25日〔12月7日〕生・1961年6月9日没、自作の筆と絵の具、ペトルセンコへの手紙と1940・1941年の展示、作品と年、1954年のパリの3点と戻らなかった2点、手紙、記念館。第2巻、2003年
    発行:Енциклопедія Сучасної України 確認日:2026-09-24
  5. Катерина Білокур: «Щаслива колгоспниця» чи бранка радянського «раю»?ウクライナ国家記憶研究所の説明:1940年の手紙とティチナ・カシヤン、1941年の焼失、専門学校の入学、ピカソの言葉として紹介される文、コルホーズとスターリンの肖像、78通の手紙、約300点、2022年の運び出し。2025年12月10日
    発行:Укрінформ/Український інститут національної пам’яті 確認日:2026-09-24

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