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文化・歴史/解説

1661年か、1784年か。リヴィウ大学はいつ始まったのか

リヴィウ大学は、1661年にポーランド王がイエズス会の学院に「大学の称号」を与えた年を始まりとし、カナダのウクライナ百科事典は1784年にオーストリア皇帝が開いた年を始まりとします。二つの年の中身と、名前と授業の言葉の移り変わりを、事典と大学の沿革から並べます。

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オリュカのひとこと

リヴィウ大学は、いつ始まった大学なのでしょう。最初の見出しで確かめられます。

リヴィウ国立大学(イヴァン・フランコ名称)の公式サイトは、1661年1月20日にポーランド王ヤン2世カジミェシュが署名した特許状から、大学の歴史を書き起こしています。一方、カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(以下IEU)は、この大学を「1784年にオーストリア皇帝ヨーゼフ2世が設立した、ウクライナで最も古い大学」と書き、1661年からのイエズス会のアカデミーはその前身だとしています。

同じ大学に、なぜ「創立の年」が二つあるのか。大学の沿革、IEU、『現代ウクライナ百科事典』(以下ЕСУ)、ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ歴史百科事典』(以下ЕІУ)を並べて見ます(2026年9月時点)。

1608年の学院と、1661年の特許状

大学の沿革とЕІУによれば、カトリックの修道会イエズス会は16世紀の終わりにリヴィウに現れ、1608年に中等の学校(コレギウム)を開きました。1661年1月20日、ヤン2世カジミェシュは、この学院に「アカデミーの品位と大学の称号」を与える特許状に署名します。当時の大学の科目をすべて教え、学士・修士・博士などの学位を授ける権利を認めるものでした(大学・ЕІУ)。

ただし、この特許状はすぐには効力を持ちませんでした。ЕСУによれば、ポーランドの貴族と、クラクフ・ザモシチの二つのアカデミーが反対し、ポーランド・リトアニア共和国の議会(セイム)は承認を拒みました。大学の地位がはっきり認められたのは、1758年のアウグスト3世の特許状とローマ教皇の勅書によってで、1759年に最初の6人が哲学博士・神学学士の学位を受けています(ЕСУ)。大学の沿革も、1758年にアウグスト3世が1661年の特許状を承認したと書いています。

アカデミーには哲学と神学の二つの課があり、授業はラテン語でした(ЕІУ)。学生の数は、大学の沿革が1667年に約500人、ЕІУが1676年に500人と書き、18世紀の初めから半ばには約700人になりました。大学の沿革は、学生の75%がポーランド人で、残りがウクライナ人やほかの民族だったとしています。

1773年、ローマ教皇クレメンス14世がイエズス会を廃止すると、アカデミーも閉じられました(IEU・ЕІУ・大学)。その前年、1772年の第1次ポーランド分割で、リヴィウを含むガリツィアはオーストリアの領土になっていました(ЕІУ)。ЕСУは、閉じたのはオーストリアの当局だと書いています。

1784年、ヨーゼフ2世の大学

ЕІУによれば、1784年10月21日、皇帝ヨーゼフ2世は教育改革の一つとして、リヴィウに大学を設ける証書を出しました。町にすでにある学校(旧イエズス会のアカデミーを含む)をもとに、神学・法学・哲学・医学の四つの学部で構成するものです。大学には旧三位一体修道会(トリニタリオ会)の修道院と教会の建物が与えられ、11月16日に設立の式典が開かれました(ЕІУ・大学)。授業の言葉はラテン語でした(IEU・ЕІУ)。

1787年には、ラテン語を知らないギリシャ・カトリックの司祭の候補者のために、ルーシ語(当時のウクライナ人の書き言葉)で教える2年の課程「ストゥディウム・ルテヌム」が設けられました。終わりの年は、IEUとЕІУが1809年、ЕСУと大学の沿革が1806年と書いていて、一致しません。

1805年、大学は格を下げられて「リツェイ」(高等の学校)になります。ЕСУによれば、オーストリアがクラクフを手に入れ、ガリツィアの大学をヤギェウォ大学ひとつにすることにしたためでした。1815年のウィーン会議でクラクフが自由市としてオーストリアの外に出ると、1817年に大学は再び開かれ、皇帝フランツ1世の名を付けられました(IEU・ЕІУ)。ЕІУは、再開の証書への署名を1817年8月7日、開学の式を10月4日としています。

  1. オリュカ

    大学の名前と授業の言葉は、どう移り変わってきたのかな。

  2. タブリ

    時代の順番は、この見出しの下の表でたどれるよ。

  3. スウネ

    資料に記述の無い欄は、表では「—」になっていると、表の下にあるね。

名前と授業の言葉の移り変わり

大学の名前と、主に使われた授業の言葉を、時代順に並べます。

年名前・形主な授業の言葉典拠
1608年イエズス会の学院(コレギウム)—ЕІУ・大学
1661〜1773年イエズス会のアカデミー(「大学の称号」の特許状)ラテン語ЕІУ・ЕСУ・大学
1784〜1805年ヨーゼフ2世の大学ラテン語IEU・ЕІУ
1805〜1817年リヴィウのリツェイ—ЕІУ・ЕСУ
1817〜1918年皇帝フランツ1世の大学ドイツ語(IEUは1817年から、ЕІУは1848年からドイツ語が主)。1879年からポーランド語IEU・ЕІУ
1919〜1939年ヤン・カジミェシュ大学ポーランド語IEU・ЕСУ(大学の沿革は、名が付いたのを1918年11月18日とする)
1939年〜リヴィウ国立大学。1940年1月8日にイヴァン・フランコの名ウクライナ語(IEUは1944年以降のロシア語化も書く)IEU・ЕІУ・大学
1999年10月11日国立大学の地位—ЕІУ・大学
IEU「Lviv National University」(2021年更新)、ЕСУ「Львівський національний університет ім. І. Франка」(2017年、2025年更新)、ЕІУ「ЛЬВІВСЬКИЙ НАЦІОНАЛЬНИЙ УНІВЕРСИТЕТ」(2009年)、大学の沿革による。「—」は資料に記述がないもの。

昔の呼び名「ヤン・カジミェシュ大学」、今の呼び名「イヴァン・フランコ名称」

IEUによれば、1918〜1919年のガリツィアでのウクライナ・ポーランド戦争のあと、ポーランドが東ガリツィアを占領し、大学はイエズス会のアカデミーを設けた王の名をとって「ヤン・カジミェシュ大学」と名付けられました。IEUは、ポーランド側がそのアカデミーを大学の前身だと主張したと書いています。名が付いた時期を、IEUは1919年、大学の沿革は1918年11月18日としています。

1939年にソ連が西ウクライナを併合すると、大学はウクライナ語化され、1940年1月8日、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国最高会議幹部会の令でイヴァン・フランコの名が付けられました(ЕІУ・大学)。フランコはこの大学の学生で、IEUによれば、1895年と1907年に講師の職を求めましたが、オーストリア政府に阻まれています。フランコについてはフランコの記事で扱っています。

ポーランド語の大学の中の、ウクライナ語の講座

1867年にガリツィアが自治を得ると、大学は少しずつポーランド語化していきました(IEU)。IEUによれば、ポーランド語は1871年に大学の運営の言葉に、1879年に主な授業の言葉になりました。授業の数は、1870年にポーランド語13、ドイツ語46、ラテン語13、ルーシ語(ウクライナ語)7だったのが、1906年にはポーランド語185、ウクライナ語19、ラテン語14、ドイツ語5になっています(IEU・ЕІУ)。

その一方で、1848〜1849年にはウクライナ語の最初の講座(ルーシ語・文学)が置かれ、ヤキウ・ホロヴァツキーが率いました(IEUは1849年、ЕІУは1848年の終わりとする)。1894年には、ムィハイロ・フルシェウシキーが東ヨーロッパ史の講座を率いています(IEU・ЕІУ)。IEUによれば、ウクライナ人の学生は多くの年で全体の3割に届かず、1912年にオーストリア政府が約束したリヴィウのウクライナ語の大学は、第一次世界大戦で実現しませんでした。

1939〜1944年の逮捕と処刑

IEUは、1939〜41年に逮捕された大学の教員を68人とし、ポーランド人の教員31人がのちに処刑されたと書いています。ЕІУは、ソ連時代の最初の学長ムィハイロ・マルチェンコが1941年に逮捕されたとしています。1941年7月には、ドイツの占領者が、大学と市内のほかの高等教育機関の元教授ら最大70人を処刑しました(IEU)。占領のあいだ大学は授業を行えず、1944年に再開しています(IEU・ЕІУ)。

オリュカのひとこと

始まりの年は、資料によって違うようです。この見出しで見比べられます。

1661年を採る資料、1784年を採る資料

同じ大学の始まりを、資料は次のように書いています。

  • 大学の公式サイト:1661年1月20日の特許状から歴史を書く。1784年は「ヨーゼフ2世の大学」の始まり
  • ЕСУ(2017年、2025年更新):「1661年にイエズス会のアカデミーとして創立」。「ウクライナと東ヨーロッパで最も古い大学の一つ」
  • ЕІУ(2009年):1608年の学院、1661〜1773年のアカデミー、1784年の大学などの「継承者」。「ヨーロッパで最も古い高等教育機関の一つ」
  • 『大ウクライナ百科事典』(ВУЕ)の見出しの説明:「1661年からリヴィウで活動する」
  • IEU(2021年更新):「1784年に設立された、ウクライナで最も古い大学」。1661〜1773年のアカデミーは「前身」

IEUはさらに、ソ連が大学の起こりを1661年とする「偽りの系譜」を広め、そのときイエズス会とのつながりには触れなかった、と書いています。1661年を大学の起点とする書き方を、IEUはポーランド時代とソ連時代の主張として紹介しているわけです。いまのウクライナの大学と二つの事典は1661年を採り、IEUは1784年を採っています。

  1. オリュカ

    「最古」と言うときは、何と比べているのかな。

  2. スウネ

    数え方ごとの条件が、この見出しの下にあるよ。

  3. ヨリクネ

    キーウやハルキウの古い学校は、この節のリンク先の記事で読めるよ。

「ウクライナ最古の大学」は何を数えているのか

1661年でも1784年でも、「最古」と言うには条件があります。キーウでは1632年に学院(のちのキーウ・モヒラ・アカデミー)が開かれ、ヴォリーニのオストロフには1576年ごろ中等より上の学校がありました(キーウ・モヒラ・アカデミーの記事)。ハルキウ大学については、ВУЕが「リヴィウの大学に次いでウクライナで古い大学」と書いています(ハルキウ大学の記事)。

王から「大学の称号」を与えられた学校として数えるなら1661年、ただしその称号は1758年まで議会に認められていませんでした。国家が大学として開いた学校として数えるなら1784年です。ЕСУは、アカデミーの時代を「法的な地位があいまいだったにもかかわらず発展した」と書いています。どちらの数え方をとっても、IEUはこの大学を「ウクライナで最も古い大学」、ЕСУは「ウクライナで最も古い大学の一つ」と書いています。

出典と記事の記録出典 6件 · AIの利用 · 運営体制

出典・参考資料

  1. Lviv National University「ウクライナで最も古い大学、1784年設立」、イエズス会のアカデミー1661〜1773年、1805年のリツェイ、1817年の再開とドイツ語、1871年・1879年のポーランド語化、講座、1919年のヤン・カジミェシュ大学、1939〜41年の逮捕、1941年7月の処刑、1940年のフランコの名、ソ連の「偽りの系譜」。執筆 Serhiy Bilenky、Bohdan Struminsky、2021年更新
    発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27
  2. Львівський національний університет ім. І. Франка1661年創立、1608年の学院、セイムの不承認、1758年の特許状と教皇の勅書、1759年の学位、1787〜1806年のStudium Ruthenum、名前の変遷。執筆 А. М. Козицький、2017年、2025年更新
    発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-27
  3. ЛЬВІВСЬКИЙ НАЦІОНАЛЬНИЙ УНІВЕРСИТЕТ継承の系譜、1661年1月20日の特許状、1676年の学生数、1784年10月21日の証書、11月16日の式典、1805年、1817年8月7日と10月4日、1848年の講座、1940年1月8日の令、1941年のマルチェンコの逮捕、1999年10月11日。執筆 В. М. Качмар、第6巻、2009年
    発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27
  4. Історія Університету1608年の学院、1661年1月20日の特許状、1758年の承認、1667年の学生数と民族の割合、1784年、Studium Ruthenum、1918年11月18日のヤン・カジミェシュの名、1940年1月8日の令、1999年10月11日の大統領令
    発行:Львівський національний університет імені Івана Франка 確認日:2026-09-27
  5. History of the University英語版の沿革。1661年1月20日の特許状と1758年の承認
    発行:Ivan Franko National University of Lviv 確認日:2026-09-27
  6. Львівський національний університет імені Івана Франка見出しの説明「діє у м. Львів з 1661」
    発行:Велика українська енциклопедія(Енциклопедичне видавництво) 確認日:2026-09-27

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