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ウクライナの人・文化・社会・未来を、日本と世界につなぐ

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記事の分野

文化・歴史

料理、音楽、文学、工芸。ウクライナの文化と、その背景にある歴史。

  1. 文化・歴史/解説

    33本の学生映画から始まった、キーウの映画祭「モロジスト」

    キーウの国際映画祭「モロジスト」は、1970年に演劇大学の映画学部の学生作品を2日間で33本見せる上映会として始まりました。1993年に国際映画製作者連盟(FIAPF)に国際映画祭として登録され、2025年秋に第54回を開いています。始まりの経緯、「国際」になった時期、2020年の延期と2022年12月の開催まで、主催者と事典の記録から並べます。

  2. 文化・歴史/解説

    歌、映画、音楽祭、記念日。「チェルヴォナ・ルータ」の56年

    作曲家ヴォロディーミル・イヴァシュクの歌「チェルヴォナ・ルータ」は、1970年9月、チェルニウツィーのテレビ番組で初めて放送されました。1971年には同じ題の音楽映画が作られ、1989年には歌の名を付けた音楽祭がチェルニウツィーで始まっています。2026年5月、最高会議はこの音楽祭の日にちなむ「ウクライナ音楽の日」を定めました。

  3. 文化・歴史/解説

    「怠けは、すべての母」。モノマフが子らに残した『教訓』

    12世紀のキーウの大公ヴォロディーミル・モノマフは、子らへの教えと自分の旅と狩りの記録を一つの文章に残しました。この作品は1377年のラヴレンチー写本にだけ残り、1793年に初めて刊行されています。書かれた年の説と、写本の中の置かれ方を事典と校訂本から見ます。

  4. 文化・歴史/解説

    1661年か、1784年か。リヴィウ大学はいつ始まったのか

    リヴィウ大学は、1661年にポーランド王がイエズス会の学院に「大学の称号」を与えた年を始まりとし、カナダのウクライナ百科事典は1784年にオーストリア皇帝が開いた年を始まりとします。二つの年の中身と、名前と授業の言葉の移り変わりを、事典と大学の沿革から並べます。

  5. 文化・歴史/解説

    ウィーン最初のコーヒー店を開いたのは、ユーリー・クルチツキーか

    1683年のウィーン包囲で急使を務めたガリツィア出身の商人ユーリー=フランツ・クルチツキーは、ウクライナの事典では「ウィーン最初のコーヒー店を開いた人」です。ところがウィーン市の歴史事典は、それを伝説とし、1685年に最初の特権を得たのはアルメニア人のデオダートだとしています。三つの資料を並べます。

  6. 文化・歴史/解説

    ハルキウが生まれた1654年、日本は承応3年

    ハルキウの始まりは、ふつう1654年とされます。草原のはずれに移り住んだコサックが川の合流点に砦を築き、町はやがてコサックの連隊の中心になりました。同じ年、江戸では玉川上水が通じ、長崎には隠元が着いています。二つの土地の出来事を一つの年表に並べ、「1654年」が何を数えた年なのかも資料ごとに見ていきます。

  7. 文化・歴史/解説

    「マルーシャ」とハルキウの劇場。クヴィトカ=オスノヴヤネンコ

    1834年の『小ロシアの物語』に収められた「マルーシャ」などの物語は、ウクライナ語でまじめな題材が書けることを示したと事典は説明します。作者のクヴィトカ=オスノヴヤネンコは、ハルキウで劇場の支配人も務めた地主でした。生涯と作品の年、ゴーゴリ『検察官』との関係をめぐる説を、二つの事典から見ます。

  8. 文化・歴史/解説

    1574年、リヴィウで刷られた『アポストル』と『アズブカ』

    1573年2月25日に刷り始め、1574年2月15日に刷り終えた。リヴィウで出た典礼書『アポストル』の奥付には、印刷者イヴァン・フェドロヴィチの来歴が書かれています。同じ年の小さな読み書きの本『アズブカ』とあわせて、中身と残った本、「ウクライナで最初の印刷本」という言い方の条件を見ます。

  9. 文化・歴史/解説

    1051年、洞窟から始まった修道院。キーウ・ペチェールシク大修道院

    年代記は1051年の項に、キーウの丘の小さな洞窟から修道院が始まった物語を置いています。「ラヴラ」の称号を得た年、1615年の印刷所、1718年の火事、1926年の保護区、1941年の大聖堂の爆破まで、事典によって食い違う年も並べながら、年表でたどります。

  10. 文化・歴史/解説

    ヘーチマン・マゼーパの22年と、元禄の日本

    1687年にヘーチマンに選ばれたイヴァン・マゼーパは、1709年まで22年間ウクライナのコサックの国を率い、教会と学校に多くの寄進をしました。同じ年月、日本は元禄から宝永へ。生類憐みの令や赤穂事件と同じ年表に並べ、「裏切り者」という呼び名が誰のものだったかも見ていきます。