1883年、ガスプリンスキーが出した新聞『テルジュマン』
1883年4月10日、クリミアのバフチサライで新聞『テルジュマン』の第1号が出ました。出したのはイスマイル・ガスプリンスキー。クリミア・タタール語とロシア語の紙面は、ロシア帝国のテュルク系の人々にも読まれ、学校の改革の運動とも結びつきました。二つの呼び名、終刊の年、ノーベル賞の推薦の話まで、資料ごとに見ていきます。
オリュカのひとこと
新聞『テルジュマン』は、どんな人が出したのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
1883年4月10日、クリミアの町バフチサライで、新しい新聞の第1号が出ました。題は『テルジュマン』。クリミア・タタール語で「通訳」「翻訳する人」を意味する言葉です。出したのは、この町の町長を務めたこともあるイスマイル・ガスプリンスキーでした。
ウクライナ大統領のクリミア自治共和国代表部(以下、大統領代表部)によれば、クリミア・タタールの人々はいまも4月10日を「クリミア・タタールのジャーナリズムの日」としています。2011年、クリミア・タタールの代表機関メジリスと記者たちがこの日を選んだ理由は、『テルジュマン』の第1号が出た日だったからです。一つの新聞と、それをつくった人を見ていきます。
町長から新聞の発行人へ
ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ史百科事典』(以下、歴史研究所の事典。第2巻、2004年、タチヤナ・ブィコヴァ執筆)によれば、ガスプリンスキー(1851〜1914年)はバフチサライの近くのアヴジコイ村(いまは無い)で、軍人の家に生まれました。大統領代表部は誕生日を1851年3月20日とし、村は1987年に消えたと書いています。
同じ事典によれば、ガスプリンスキーは村のイスラムの学校(メクテブ)で学んだあと、ヴォロネジで学び、モスクワの幼年学校に進みました。卒業しないまま1867年にバフチサライへ戻って、ジンジェルリ・メドレセ(イスラムの神学校)で教えました。1871年から1874年まではパリにいてロシアの新聞に記事を送り、1874年にイスタンブールへ移ります。1877年に故郷へ戻り、バフチサライの町長になりました。アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の『Internet Encyclopedia of Ukraine』(以下、IEU)の「Tatars」の項は、町長の任期を1877〜1881年としています。
ウクライナの内閣は2001年3月7日の命令第75-р号で、ガスプリンスキーの生誕150年を記念する組織委員会を設け、彼を「クリミア・タタールの人々のすぐれた啓蒙家、人文主義者、思想家」と呼んでいます。
オリュカ
この人と新聞の名前には、いくつの書き方があるのかな。
ヨリクネ
人の名前の別の形と、その由来が、この見出しの下にあるよ。
タブリ
新聞の題の二つの形も、この見出しの下で見比べられるよ。
ガスプリンスキーとガスプラル:二つの呼び名
ウクライナ語の事典の見出しは「ガスプリンスキー」(Гаспринський)です。IEU の「Bakhchysarai」の項(2023年更新)は、彼を「Ismail bey Gasprinsky(別名 Gaspirali)」と書き、この名はクリミアの町ガスプラにちなむと説明しています。歴史研究所の事典も見出しの後ろに「ガスプラル(Гаспрали)」を添えています。
新聞の題にも二つの形があります。IEU の「Tatars」の項は『Tercuman-Perevodchik』と書いており、クリミア・タタール語の「テルジュマン」とロシア語の「ペレヴォトチク」は、どちらも「通訳・翻訳者」の意味です。ラテン文字の綴りは、IEU の「Bakhchysarai」の項が Tercüman、大統領代表部が Terciman と、資料によって揺れています。
1883年4月10日の第1号
歴史研究所の事典の「テルジュマン」の項(ムィコラ・キリュシコ執筆)によれば、新聞はクリミア・タタール語とロシア語で出され、クリミアのムスリムにヨーロッパの文化・科学・法を知らせ、ロシアの人々にはムスリムの暮らしと考え方を知らせることを目的にしていました。東方の多くの国に広まった、とも書いています。
大統領代表部の2026年4月10日の記事は、もう少し詳しく書いています。準備は1882年から始まっていたものの、役所の許可に手間どって、第1号は1883年の春になった。紙面はロシア語の部分とクリミア・タタール語の部分の二つからなり、第1号は帝国の新しい法律、テュルク系・ムスリムの新聞の発展、女性の解放を取り上げた。はじめは週刊で、のちに日刊になり、オスマン帝国、カフカス、中央アジアでも読まれた、という説明です。同じ記事は、発刊の時期が形の上ではロシア帝国によるクリミアの「併合」(1783年)に合わせてあり、クリミア・タタールの人々はその「併合」を占領とみなしている、とも書いています。
大統領代表部の2025年3月20日の記事によれば、新聞はクリミア・タタール語の南岸の方言をもとにした言葉を、オスマン帝国と同じアラビア文字で書いていました。最も多いときの部数は1万6千部に達した、としています。
一つの言葉をめざしたのか、クリミア・タタール語の新聞だったのか
『テルジュマン』の言葉をどう呼ぶかは、資料によって力点が違います。
- IEU の「Tatars」の項(紙の事典の第5巻、1993年が初出)は、ガスプリンスキーの運動が、ロシア帝国のすべてのテュルク系・タタール系の人々に共通の一つのテュルク語を使うことを進めたと書いている
- 歴史研究所の事典は、新聞を「クリミア・タタール語とロシア語」の二つの言葉で出たものとしている
- 大統領代表部は、クリミア・タタール語の南岸の方言にもとづく言葉を、アラビア文字で書いたと説明している
大統領代表部は、ガスプリンスキーの標語として「言葉において、思想において、行いにおいて一つに」を挙げています。クリミアの外のテュルク系の読者にも届く言葉を選んだことと、クリミア・タタール語の新聞の始まりとされることは、同じ一つの新聞の二つの面です。
「新しい方法」の学校
ガスプリンスキーの名前は、新聞と並んで、学校の改革と結びつけて語られます。歴史研究所の事典の「ジャディード運動」の項(2004年)によれば、この名前はアラビア語の「ウスーリ・ジャディード(新しい方法)」から来ており、イスラムの文化をヨーロッパの文化に近づけ、ムスリムの暮らしを新しくしようとする運動でした。クリミアではガスプリンスキーが始め、「新しい方法」による世俗の学校をつくって教育を改めることがその中身だった、とあります。
IEU の「Bakhchysarai」の項は、これがクリミア・タタールの人々にとって、クリミア・タタール語の読み書きと、中世さながらだったイスラムの学校(マドラサ)に当時の学科を入れることを意味したと書いています。大統領代表部は、「新しい方法」の学校で初めて学級ごとの授業と教科書が使われ、女性の教育が取り入れられたこと、ガスプリンスキーが音をもとにして文字を教える方法を考えたことを挙げています。
新聞から広がった出版
歴史研究所の事典によれば、ガスプリンスキーは大・中・小の三つの判型でコーランを刷り、それは国外や、ヴォルガのタタールなどロシア帝国のテュルク系の人々の間に広まりました。週刊紙『ミッレト(民族)』や、女性向けの週刊誌『アレミ・ニスヴァン(女性の世界)』も出し、自分の短い小説も刷っています。大統領代表部は、子ども向けの『アレミ・スブヤン(子どもの世界)』や風刺の新聞も挙げ、旅の記録の形をとった小説『モッラ・アッバス』が1887〜1889年に『テルジュマン』に連載されたとしています。
著作では、1881年にシンフェロポリで出た『ロシアのムスリム』(原題 Русское мусульманство。訳は仮のもの)が、歴史研究所の事典の著作一覧の最初に挙がっています。
オリュカのひとこと
この人と新聞の歩みは、どう続いたのでしょう。この年表で確かめられます。
年表:ガスプリンスキーと『テルジュマン』
| 年 | 出来事 | 出どころ |
|---|---|---|
| 1851年 | バフチサライの近くのアヴジコイ村で生まれる(大統領代表部は3月20日とする) | 歴史研究所の事典、大統領代表部 |
| 1867年 | バフチサライに戻り、ジンジェルリ・メドレセで教える | 歴史研究所の事典 |
| 1871〜1874年 | パリに住み、ロシアの新聞に記事を送る | 歴史研究所の事典 |
| 1874年 | イスタンブールへ移る | 歴史研究所の事典 |
| 1877年 | バフチサライの町長になる(IEU は1881年までとする) | 歴史研究所の事典、IEU |
| 1881年 | シンフェロポリで『ロシアのムスリム』(仮の訳)を出す | 歴史研究所の事典 |
| 1882年 | 新聞の準備が始まる | 大統領代表部 |
| 1883年 | 4月10日、『テルジュマン』の第1号がバフチサライで出る | 歴史研究所の事典、大統領代表部 |
| 1887〜1889年 | 小説『モッラ・アッバス』を連載 | 大統領代表部 |
| 1914年 | 9月24日に亡くなり、息子のレファトが新聞を続ける | 歴史研究所の事典 |
| 1918年 | 2月23日、最後の号 | 大統領代表部 |
| 1921年 | 『テルジュマン』を刷った印刷所の建物に、ガスプリンスキーの記念館が開く | IEU |
| 2001年 | 内閣が生誕150年の記念の組織委員会を設ける(3月7日) | ウクライナ内閣の命令 |
| 2011年 | 4月10日を「クリミア・タタールのジャーナリズムの日」とする | 大統領代表部 |
新聞はいつまで出ていたのか
『テルジュマン』の終わりの年は、資料によって違います。
- IEU の「Tatars」の項(1993年初出)は、1883年から1914年まで出たと書いている
- 同じ IEU の「Bakhchysarai」の項(2023年更新)は、1883〜1918年としている
- 歴史研究所の事典の「テルジュマン」の項は、ガスプリンスキーが1914年9月24日に亡くなったあと、息子のレファトが発行を続けたと書き、終わりの年は書いていない
- 大統領代表部は、最後の号が1918年2月23日に出たとし、ボリシェヴィキがクリミアを占領したあとだったと書いている
1914年は創刊者が亡くなった年、1918年は大統領代表部が最後の号が出たとする年です。
ノーベル平和賞の候補だったのか
歴史研究所の事典の「テルジュマン」の項は、新聞の仕事によって、ガスプリンスキーが1910年にノーベル平和賞の候補に推されたと書いています。大統領代表部の2025年と2026年の記事も、1910年に候補に推されたとしています。
一方、ノーベル財団が公開している推薦の記録のデータベースでは、1905年から1914年までの平和賞の推薦の一覧に、ガスプリンスキーの名前は見当たりません(2026年9月時点)。推薦があったかどうかは、記録の原本で確かめられるまでは、事典と大統領代表部の説明として読むのが確かです。
1944年の追放のあと
1944年にソ連政府がクリミア・タタールの人々をクリミアから追放したあと、クリミア・タタール語の新聞や雑誌、本の多くは意図的に壊されて残っていない、と大統領代表部は書いています。
2014年からの占領のもとで
2014年からロシアに占領されているクリミアでは、クリミア・タタールのテレビ局やラジオ局などが活動をやめるか半島の外へ移らざるをえなかったと、大統領代表部は2026年4月10日の記事で書いています。
『テルジュマン』のあとに読む
ガスプリンスキーの新聞がアラビア文字で書かれていたクリミア・タタール語は、その後ラテン文字、キリル文字へと書き方を変えさせられ、2021年にウクライナの内閣がラテン文字の31文字の字母を定めています。その経緯はクリミア・タタール語のラテン文字の記事にあります。クリミア・タタールを先住民族と定めた2021年の法律は先住民族法の記事、文様の伝統はオルネクの記事で扱っています。
ガスプリンスキーの娘シェフィカ(1886〜1975年)も、クリミアのムスリム女性の運動を率いた人として、ウクライナ最高会議の2026〜2027年の記念日を定めた決議(2025年12月18日、第4748-IX号)に名前が載っています。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- ГАСПРИНСЬКИЙ Ісмаїл-бей1851〜1914年、「Гаспрали」、アヴジコイ村、学歴、1867年のジンジェルリ・メドレセ、1871〜1874年のパリ、1874年のイスタンブール、1877年の町長、1883年の二言語の新聞と4月10日の第1号、コーランの印刷、『ミッレト』『アレミ・ニスヴァン』、著作一覧、バフチサライで死去。執筆 Бикова Т.Б.、第2巻 2004年
発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-27 - ТЕРДЖІМАН1883年4月10日から、1914年9月24日の死去と息子レファトによる継続、クリミア・タタール語とロシア語、目的、東方の国々への広がり、1910年のノーベル平和賞の候補。執筆 Кирюшко М.І.
発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-27 - ДЖАДИДІЗМusul-i-jadid=新しい方法、クリミアではガスプリンスキーが始めた「新しい方法」の世俗の学校。執筆 Кирюшко М.І.、第2巻 2004年
発行:Енциклопедія історії України(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-27 - BakhchysaraiIsmail bey Gasprinsky〔aka Gaspirali、ガスプラにちなむ〕、1851〜1914、Tercüman(1883–1918)、ジャディード運動と学校、1921年の記念館。執筆 Ihor Stebelsky、2023年更新
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所) 確認日:2026-09-27 - TatarsI. Bey Gaspirali、1877〜1881年の町長、共通のテュルク語、Tercuman-Perevodchik の1883〜1914年。執筆 Arkadii Zhukovsky、紙の事典の第5巻 1993年
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - Crimean Tatars1944年の追放。2014年更新
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - День кримськотатарської журналістики: історія і сучасність під окупацією2026年4月10日。2011年に始まった記念日、1883年4月10日の第1号、1882年からの準備、「併合」に合わせた時期、二つの部分、第1号の内容、週刊から日刊、最後の号1918年2月23日、2014年以降の報道機関
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発行:Верховна Рада України(zakon.rada.gov.ua) 確認日:2026-09-27 - Nomination Archive: Nobel Peace Prize 1905–1914各年の推薦の一覧にガスプリンスキーの名が無いこと
発行:Nobel Foundation(nobelprize.org) 確認日:2026-09-27
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