1896年9月、ハルキウの行列を撮った1分半。写真家フェデツキー
1896年9月30日、ハルキウの写真家アルフレッド・フェデツキーは、町を進むイコンの行列を約1分半のフィルムに収めました。12月2日には歌劇場で自作の映像を上映しています。ジトーミル生まれの写真家が映画に関わった1年あまりの記録と、「ウクライナで最初の映画」という言い方が何を数えているのかを、事典と研究書からたどります。
オリュカのひとこと
ハルキウで映画が撮られたのは、いつのことなのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
1896年9月30日、ハルキウの通りを、イコンを掲げた長い行列が進みました。郊外のクリャジ修道院からハルキウの町へ、オゼリャーンスカの聖母のイコンを移す毎年の行事です。この日、写真館を営むアルフレッド・フェデツキー(Альфред Федецький)が、その行列をフィルムに収めました。翌日の地元紙『ユージュヌイ・クライ』(Южный край)は、彼が行列を「1分半にわたって」撮ったと伝えています。
『ウクライナ歴史百科事典』(ЕІУ)は、フェデツキーが1896年から「ウクライナで最初の記録映画」を撮り始めたと書いています。その映像は、見ることができません。以下は、写真家として名を上げた一人の人物が映画に関わった1年あまりの記録です。映画史の全体はウクライナに関わる映画の記事に任せます。
ジトーミル生まれの写真家
ЕІУ(執筆 ペトロ・ボンダルチュク、2013年)と、国の電子版『大ウクライナ百科事典』(ВУЕ、執筆 ヴォロディーミル・ミスラウシキー、2022年)によれば、フェデツキーは1857年にジトーミルで生まれました。ВУЕ は父を劇団の興行主・演出家・俳優とし、ミスラウシキーの研究書(2010年)はポーランド系の演劇一家の出身と書いています。ウィーンの美術アカデミー付属の写真学校で学び、ВУЕ によれば1880年に卒業して、キーウの写真館で働きました。
ハルキウへ移った年は、資料で分かれます。ЕІУ は「1894年からハルキウ」、ВУЕ は1886年に移って写真館を開いたとしています。ミスラウシキーは、ハルキウ県知事あての開業の許可(1886年6月3日付)を州の公文書館で見つけたと書いています。
ВУЕ によれば、フェデツキーは俳優マルコ・クロピウニツキー、マリヤ・ザンコヴェツィカ、作曲家チャイコフスキー、画家アイヴァゾフスキーらの肖像を撮り、1888年に近郊のボルキ駅で起きた皇帝の列車の事故の現場も撮影しました。1896年からはレントゲン写真の実験にも取り組み、のちにカラー写真や、浮き彫りのように見える写真も試しています。
1896年、ハルキウに映画が来た
フェデツキーが撮る前に、映写はウクライナの町に来ていました。カナダ・ウクライナ研究所の『Internet Encyclopedia of Ukraine』(IEU)の「Film」の項目(初出1984年)は、1896年にリュミエール兄弟の作品がまずオデーサで上映され、ほかの町へ広がったと書いています。ミスラウシキーの研究書は、オデーサでのリュミエールのシネマトグラフの上映を7月11〜28日とし、ハルキウでは7月7日に、商業クラブの庭の劇場で最初の公開の映写があったと書いています。映画史家ヴェニアミン・ヴィシネウシキーの見方として、イギリスのロバート・ポールの会社の機械によるものだった、とも紹介しています。
ミスラウシキーによれば、フェデツキーは1896年の夏、フランスのレオン・ゴーモンから、ジョルジュ・ドゥメニーが考えた撮影機(撮影・焼き付け・映写を1台でこなせる機械)を買いました。9月30日の撮影は、ミスラウシキーと ВУЕ の言い方では、ハルキウでのフェデツキーの撮影として「文書で裏づけられる最初のもの」です。行列はフェデツキーが最初に写真館を開いた通りを通っており、彼は写真館の近くから撮ったのだろう、とミスラウシキーは推測しています。
「キネトグラフ」「シネマトグラフ」――当時の呼び名
機械の名前は、まだ一つに決まっていませんでした。ミスラウシキーが引く当時の新聞の予告は、上映に使う機械が「クロノフォトグラフ、シネマトグラフ、キネマトグラフ、アニマトグラフ」など、さまざまな名で呼ばれていると書いています。フェデツキー自身の広告は「キネトグラフ」、新聞の記事は「シネマトグラフ」とも書いています。いまのウクライナ語では、映画は「кіно」(キノ)と呼ばれます。
オリュカ
撮影と上映は、どんな順番で進んだのかな。
タブリ
日付のわかる出来事が、この見出しの下の表に並んでいるよ。
スウネ
その日付がどの暦によるものかは、記事の終わりの「この記事で確認できていないこと」にあるよ。
撮影と上映の記録(1896〜1897年)
ВУЕ とミスラウシキーの研究書をもとに、日付のわかる出来事を並べます。日付は資料が挙げるとおりです。
| 年月日 | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|
| 1896年7月7日 | ハルキウの商業クラブの庭の劇場で、最初の公開の映写 | ミスラウシキー(2010年) |
| 1896年7月11〜28日 | オデーサでリュミエールのシネマトグラフが上映される | ミスラウシキー(2010年)。IEU は年だけ |
| 1896年夏 | フェデツキーがゴーモンからドゥメニー式の撮影機を買う | ミスラウシキー(2010年) |
| 1896年9月30日 | イコンの行列を約1分半撮影 | ВУЕ、ミスラウシキー(2010年) |
| 1896年12月2日 | ハルキウの歌劇場で最初の上映会。観客は約1,000人 | ВУЕ |
| 1896年12月7日 | 2回目の上映会(慈善)。18本を上映 | ВУЕ、ミスラウシキー(2010年) |
| 1897年 | キンナ広場(Кінна площа)の祭りを撮影 | IEU(1897年)、ミスラウシキー(4月) |
| 1897年8月21日 | 奇術師アルバーニの舞台を撮影 | ВУЕ |
12月2日の上映会は、いまのハルキウ州フィルハーモニーの建物で開かれました(ВУЕ)。ミスラウシキーが引く前日の新聞の予告によれば、幅12アルシン(約8.5メートル)、高さ10アルシンの幕に映し、パリでの皇帝夫妻の行事の場面と、ハルキウで撮った行列とオレンブルク・コサック連隊の騎馬の演技を見せる、というものでした。7日の2回目は、集まったお金を、冬の服を質屋から請け出せない人々に回す慈善の会で、ハルキウ駅から列車が出ていく場面が新しく加わりました。
1897年8月21日の撮影について、ВУЕ は、俳優がカメラのためにわざわざ演じた場面を撮った、ロシア帝国で最も早い例の一つとし、同じころフランスではジョルジュ・メリエスが同じような試みをしていた、と書いています。
オリュカのひとこと
「最初」という言い方には、条件があるようです。この見出しで確かめられます。
「ウクライナで最初の映画」は何を数えているのか
フェデツキーには「最初の」という言葉がよく付きます。ただ、何を数えるかで、言い方も主体も変わります。
- 最初の上映:フェデツキーではありません。IEU は1896年のオデーサでのリュミエールの上映から書き始め、ミスラウシキーはハルキウで7月7日、オデーサで7月11〜28日に上映があったとしています。ウクライナのどの町が最初だったかは、この二つの資料からは決められません
- ウクライナで撮られた最初の記録映画:ЕІУ は「1896年から、ウクライナで最初の記録映画を撮り始めた」と書き、IEU の「Kharkiv」の項目は、ウクライナの映画が1890年代後半、フェデツキーの短い記録映画とともにハルキウで始まったとしています
- ロシア帝国で最初:ミスラウシキーは研究書の中で彼を「ロシア帝国で最初の撮影者」と呼び、ハルキウ州国家行政府は2013年の記念板の紹介で「ロシア帝国で最初の記録映画の作者」と書いています。同じ研究書は、1896年5月にリュミエール社の撮影者カミーユ・セルフがモスクワで撮影していたことも記しており、「最初」は帝国の中で活動した写真家の中で、という意味で使われています
フェデツキー本人はポーランド系の一家に生まれ、ロシア帝国の町ハルキウで活動しました。「ウクライナ映画」という言葉がそもそも何を指すかは、「ウクライナ映画」が指す五つのものの記事で扱っています。
オリュカ
フェデツキーの撮った映像は、いまも見られるのかな。
スウネ
残っているかどうかの研究者の見方は、この見出しの下にあるよ。
ヨリクネ
その後の撮影所の歩みは、この節のリンク先の記事へ寄り道できるよ。
フィルムは残っているのか
ミスラウシキーは、フェデツキーのフィルムは「おそらく残っていない」と書いています。フランスのシネマテークには撮影者のわからない初期の記録映画が多く保存されており、そこから見つかる可能性はある、というのが彼の見方です。フェデツキーの撮影機は幅60ミリのフィルムを使い、ほかの会社の多くの機械は35ミリだったため、撮った映像を売る先が限られ、映画から手を引いた、とミスラウシキーは説明しています。
フェデツキーは1902年7月21日、ミンスクで亡くなり、ハルキウに葬られました(ЕІУ、ВУЕ)。ハルキウでは2010年に州フィルハーモニーの建物に、2013年に彼が住んだスームスカ通り3番地の建物に、記念板が掲げられています(ВУЕ、ハルキウ州国家行政府)。その後のウクライナの撮影所の歩みは、オデーサ映画撮影所の記事、国の映画アーカイブはドヴジェンコ・センターの記事で読めます。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- ФЕДЕЦЬКИЙ Альфред Костянтинович生没年月日〈1857—21.07.1902〉、ジトーミル生まれ、ウィーンの美術アカデミー付属の写真学校、キーウでの勤務と「1894年からハルキウ」、1896年から最初の記録映画を撮り始めたこと、作品名、ミンスクで没しハルキウに葬られたこと。執筆 П. М. Бондарчук、2013年
発行:Енциклопедія історії України, т. 10(ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所) 確認日:2026-09-27 - Федецький, Альфред-Люціан Костянтинович1880年の卒業、1886年のハルキウ移住、肖像写真、1896年9月30日の撮影と『ユージュヌイ・クライ』の報道、12月2日と7日の上映会と18本、1897年8月21日の奇術師の撮影、作品名、記念板。執筆 В. Н. Миславський、2022年6月30日公開
発行:Велика українська енциклопедія(電子版、国立学術機関「百科事典出版」) 確認日:2026-09-27 - Film1896年にリュミエール兄弟の作品がまずオデーサで上映されたこと、フェデツキーの3本の題と年。執筆 Ivan Koshelivets、初出1984年
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - Kharkiv「ウクライナの映画は1890年代後半、フェデツキーの短い記録映画とともにハルキウで始まった」という記述
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-27 - Миславський В. Н. Альфред Федецький поет фотографії. Харків: Фактор, 2010ISBN 978-966-180-088-4。1886年の開業許可、1896年7月のハルキウでの最初の公開映写、オデーサでのリュミエールの上映〈7月11〜28日〉、ゴーモンからのカメラの購入、9月30日の撮影と新聞の引用、12月の上映会、1897年の撮影、フィルムが残っていないとみられること、1902年の死去。著者がインターネット・アーカイブに載せた閲覧用の版
発行:Фактор(ハルキウ) 確認日:2026-09-27 - У Харкові відкрито меморіальні дошки фотографу Альфреду Федецькому…2013年5月17日、スームスカ通り3番地の記念板、「ロシア帝国で最初の記録映画の作者」という紹介
発行:ハルキウ州国家行政府 確認日:2026-09-27
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