諮問機関は「記載の延期」を勧めた。チェルニウツィーの府主教の邸宅
チェルニウツィー大学の本館は、1864年から1882年にかけて建てられたブコヴィナとダルマチアの正教会の府主教の邸宅です。2011年、ユネスコの諮問機関は世界遺産への記載の延期を勧めましたが、世界遺産委員会は記載を決めました。建築家フラーヴカ、邸宅が大学になった経緯、評価が分かれた点をまとめます。
オリュカのひとこと
時計塔の丸屋根に、なぜダビデの星の飾りがあるのでしょう。最初の節で評価書の説明を確かめられます。
チェルニウツィー国立大学(ユーリー・フェジコヴィチ記念)の本館は、もともと大学のために建てられたものではありません。1864年から1882年にかけて、ブコヴィナとダルマチアを治める正教会の府主教の邸宅として建てられました。赤れんがの建物群は2011年、ユネスコの世界遺産「ブコヴィナとダルマチアの府主教の邸宅」(Residence of Bukovinian and Dalmatian Metropolitans)に記載されています。
記載の前、ユネスコの諮問機関ICOMOS(国際記念物遺跡会議)は、この建物群について記載の延期を勧めていました。世界遺産委員会はその勧告と違う判断をしています。建物の成り立ちから、評価が分かれた点までを順に見ていきます。
プルト川を見下ろす丘の三つの建物
ICOMOSの評価書によると、世界遺産の範囲は8ヘクタールで、周りに244.85ヘクタールの緩衝地帯があり、旧市街まで含んでいます。建物群は、プルト川と支流に挟まれた丘の斜面に立っています。塀で囲んだ100メートル×70メートルの前庭の正面に府主教の住まいだった本館、左に神学校の棟と「三聖師の教会」(聖大バシレイオス、聖ヨハネス・クリュソストモス、神学者聖グレゴリオスに献げた教会)、右に時計塔のある修道院の棟が並び、裏には庭園と英国式の公園が広がります。
世界遺産委員会の決定は、この建物群を、オーストリア=ハンガリー帝国の中で正教会の文化的な独自性を表した19世紀の歴史主義建築の顕著な例と説明しています。ドーム屋根の十字形の教会にはビザンティンの形を使い、色の違う釉薬の瓦で屋根に描いた模様は、土地の人々の民俗文化を表しているとしています。ICOMOSの評価書は、修道院の棟の時計塔の丸屋根にダビデの星の飾りがあり、建設資金を援助した町のユダヤ人共同体への感謝のしるしだと書いています。ウクライナの国の百科事典『大ウクライナ百科事典』(ВУЕ)も、町のドイツ系とポーランド系のカトリック共同体、ユダヤ教の共同体が建設に寄付したと書いています。
オリュカのひとこと
この邸宅の設計は、1867年のパリ万国博覧会でどう評価されたのでしょう。建築家の経歴とあわせて読めます。
チェコ出身の建築家、ヨゼフ・フラーヴカ
設計と建設を担ったのは、ヨゼフ・フラーヴカ(Josef Hlávka)です。ВУЕによると、1831年2月15日にいまのチェコのプシェシュチツェに生まれ、1908年3月11日にプラハで亡くなりました。プラハの工科学校とウィーンの美術アカデミーで学び、ウィーンで建設会社を率いた建築家で、1890〜91年には、いまのチェコ科学アカデミーの前身の創設を資金面で支え、初代の総裁になっています。
邸宅の設計を国から受注したのは1861年(ВУЕは「別の資料では1860年末」とも書く)、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が設計を承認したのは1863年でした。ВУЕは、フラーヴカが設計し建てたもののうち最も優れた作品をこの邸宅とし、1867年のパリ万国博覧会でこの設計が2等賞を受けたと書いています。ВУЕによると建設費は175万オーストリア・グルデンで、ブコヴィナ正教会の宗教基金が出しました。邸宅の裏の庭園には、1937年に彼の胸像が置かれています。
ハプスブルク帝国のブコヴィナと正教会
Internet Encyclopedia of Ukraine(アルバータ大学カナダ・ウクライナ研究所=CIUS)によると、オーストリアは露土戦争(1768〜74年)の機に、チェルニウツィーを含むモルダヴィアの北部を併合し、この地域は「ブコヴィナ」と名付けられました。1849年には独自の行政をもつ王領になっています。同じ事典は、1910年のオーストリアの国勢調査によるブコヴィナの住民の構成を、ウクライナ人40%、ルーマニア人34%、ユダヤ人11%、ドイツ人9%、ポーランド人3%としています。ユダヤ人、ドイツ人、ポーランド人は主に町、特にチェルニウツィーに住んでいました。
ICOMOSの評価書によると、ブコヴィナの主教区は後にダルマチアの主教区と合わさり、1873年、主教イェウヘン・ハクマンが勅令でチェルニウツィー大主教・ブコヴィナ府主教とされました。新しい邸宅の建設を言い出したのも彼です。府主教座には、いまのクロアチアのザダル、モンテネグロのコトル、トリエステ、ウィーン、プラハに主教区が置かれていました。オーストリアの宗教省の許可のもと、宗教基金で建てられたこの邸宅を、ICOMOSは、ブコヴィナの住民のうち最も影響力のある宗教集団への帝国の寛容を示す政治的な表明だったと書いています。同時に、それは本当の寛容というより、各宗派に自由を与えて治める巧みな統治だったとみることもできる、とも書き添えています。
府主教の邸宅から大学へ
大学のほうは、邸宅とは別に始まりました。大学の公式サイトによると、1875年3月31日の皇帝フランツ・ヨーゼフの勅令で創立され、同年10月4日に「フランツ・ヨーゼフ大学」として開学しています。授業の言葉はドイツ語でした。IEUによると、オーストリアの時代には神学(正教)・法学・哲学の3学部があり、哲学部にはウクライナ語・ウクライナ文学の講座も置かれました。学生にはブコヴィナだけでなくガリツィアの出身者も多く、作家のイヴァン・フランコもその一人です。ВУЕによると、1875年から邸宅の神学校の棟に大学の神学部が入りました。
第一次世界大戦のあと、ブコヴィナはルーマニア王国に入り、大学もルーマニア語の大学になりました。1940年にブコヴィナの北部がソ連に併合されると、授業の言葉はウクライナ語に変わります。ICOMOSの評価書によると、邸宅は1945年に国の保護区とされ(世界遺産委員会の決定の英文では「国立公園」)、1955年にチェルニウツィー国立大学の前身に移されました。大学の公式サイトは、1955年のウクライナ・ソビエト社会主義共和国閣僚会議の決定で大学に移されたとしています。一方で、ВУЕとIEUの「チェルニウツィー」の項は1956年としています。
建物は戦争で傷んでいます。ВУЕは、1944年に府主教がルーマニア軍とともに退去するときに本館に火が放たれ、東の翼の広間の内装が失われたと書いています。ICOMOSの評価書は、会議の間(大理石の間)の木の天井が1942年の火災で失われ、1950年代にスターリン時代の様式で描いた天井に替えられたと書いています。年の違いは資料どうしで解消できていません。ICOMOSの評価書によると、ソ連の時代が終わってから、三聖師の教会は教会としての働きを取り戻しました。
「延期」の勧告と、世界遺産委員会の記載
ICOMOSの評価書によると、ウクライナは2007年6月11日にこの建物群を暫定一覧に載せ(ВУЕは2009年と書く)、2010年1月29日に推薦書を出しました。ウクライナは基準(i)から(iv)の四つにあてはまると主張しましたが、ICOMOSは2011年3月の評価書で、どの基準も「現時点では示されていない」と判断しました。理由は主に次の点です。
- 比較の分析が足りない。フラーヴカには約150の作品があるのに、この邸宅が最高傑作だという主張を他の作品との比較で裏付けていない
- 19世紀ヨーロッパの歴史主義建築全体の中で、なぜこの様式が選ばれたのかが論じられていない
- 内装の説明や写真、修復工事の詳細が足りず、真正性を判断しにくい
そのうえでICOMOSは、比較の分析を深め、観光管理計画や危機への備えを管理計画に加えるなどしたうえで改めて審査するよう、記載の延期を勧めました。
世界遺産委員会は2011年6月にパリのユネスコ本部で開いた第35回会合で、勧告とは違い、基準(ii)(iii)(iv)でこの建物群を記載しました(決定35 COM 8B.38)。決定は基準(iii)の説明として、ブコヴィナの府主教座は1940年に存在を終え、アドリア海のトリエステまで広がったその府主教座の名は、歴史の文献の中にしか残っていないと述べています。あわせて委員会は、観光管理計画をつくること、裏の庭園と公園の保全計画をつくること、内装の修復工事の詳細をユネスコに出すことを勧めました。ВУЕによると、2012年に大学の中に、この世界遺産を管理するセンターが置かれています。
ウクライナの世界遺産の一覧は「ウクライナの街と世界遺産」に、同じ西ウクライナの世界遺産で、ハプスブルク時代より古い木造の教会はカルパティアの木造教会の記事にまとめています。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Decisions adopted by the World Heritage Committee at its 35th session (UNESCO, 2011), WHC-11/35.COM/20, Decision 35 COM 8B.38記載の決定、基準(ii)(iii)(iv)、暫定の顕著な普遍的価値の説明、1945年と1955年、勧告3項目
発行:UNESCO World Heritage Committee 確認日:2026-09-24 - Advisory Body Evaluation No 1330: Residence of Bukovinian and Dalmatian Metropolitans2011年3月承認。面積8ha・緩衝地帯244.85ha、建物の構成と建設の順序、ダビデの星、1873年の府主教、1945年・1955年、1942年の火災、暫定一覧2007年6月11日、各基準への所見、記載の延期の勧告
発行:ICOMOS(UNESCO掲載) 確認日:2026-09-24 - Резиденція митрополитів Буковини і Далмації в ЧернівцяхВ. В. Вечерський執筆、2022年11月29日公開。1863年の設計承認、建設費と資金、寄付した宗教共同体、各棟の建設年、1944年の火災、1956年の移管、2012年の管理センター
発行:Велика українська енциклопедія 確認日:2026-09-24 - Главка, ЙозефВ. В. Вечерський執筆、2024年5月2日公開。生没年月日と生没地、学歴、1861年の受注、1867年パリ万博の2等賞、チェコ科学アカデミーの創設
発行:Велика українська енциклопедія 確認日:2026-09-24 - Chernivtsi National University2021年改訂。1875年の創立、ドイツ語の大学、ルーマニア語化とソ連期、1955年から本館、フランコらの学生
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Chernivtsi邸宅の設計と建設1864〜82年、1956年の大学への編入、1873年からの府主教座
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Bukovyna1774年のオーストリアの併合、1849年の王領、1910年のオーストリアの国勢調査による民族の構成、1940年の分割
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(CIUS) 確認日:2026-09-24 - Про університет1875年3月31日の勅令と10月4日の開学、名称の変遷、1955年のウクライナ・ソビエト社会主義共和国閣僚会議の決定による移管
発行:Чернівецький національний університет імені Юрія Федьковича 確認日:2026-09-24
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