火事から14年、ウィーンの設計で建て直されたオデーサの歌劇場
オデーサの劇場は1810年に最初の上演の季節を迎え、1873年に焼けました。いまの建物はウィーンのフェルナーとヘルマーの設計で1887年に開き、沈む地盤と補強の工事を繰り返してきました。三つの事典とユネスコの記載から、年の食い違いも含めてたどります。
オリュカのひとこと
オデーサの劇場は、火事のあとどう建て直されたのでしょう。最初の見出しで確かめられます。
オデーサの港に近い高台に、正面の屋根に四頭の豹が引く車を乗せた劇場があります。オデーサ国立アカデミー・オペラ・バレエ劇場です。いまの建物は、1873年に最初の劇場が焼けたあと、ウィーンの二人の建築家の設計で建てられ、1887年に開きました。ユネスコは2023年、オデーサの歴史地区を世界遺産に記載したとき、この劇場を街の主な目印の一つに挙げています。
以下は、『現代ウクライナ百科事典』(ЕСУ、2022年の項目)、ウクライナ国立科学アカデミー歴史研究所の『ウクライナ歴史百科事典』(ЕІУ、2010年の項目)、カナダ・ウクライナ研究所(CIUS)の Internet Encyclopedia of Ukraine(IEU)、ユネスコ世界遺産センターの記載による内容です(2026年9月時点)。年が資料で食い違うところは、両方を示します。
1810年、市立劇場の最初の季節
ЕСУによれば、市立劇場(Міський театр)の最初の上演の季節は1810年2月10日に始まりました。演目は、ロシア語の劇団による一幕のオペラと、ヴォードヴィルでした。1811年からは別のロシア語の劇団が出演し、1820〜1850年代にはイタリア・オペラが演目の中心になります。ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディの作品が並び、ЕСУは1821年にロッシーニの『セビリアの理髪師』がロシア帝国で初めてここで上演された、と書いています。
ЕІУは、同じ劇場の始まりを少し違う形で書いています。オデーサのロシア・オペラが1809年に設けられ、建物は建築家トマ・ド・トモンの設計で1804〜1809年に建てられた、というものです。IEUは、劇場が1810年に設けられたとしています。
オリュカ
劇場の始まりの年は、なぜ事典によって違うのかな。
スウネ
「始まり」とみる基準が、この見出しの下で事典によって違うようだよ。
タブリ
建物ができた年と、上演が始まった日は、この見出しの下で見比べられるよ。
始まりは1809年か、1810年か
三つの事典の違いは、何を「始まり」とみるかの違いとも読めます。建物ができた年(ЕІУは1809年)と、上演の季節が始まった日(ЕСУは1810年2月10日)です。ウクライナの国の百科事典『大ウクライナ百科事典』(ВУЕ)の短い項目も、この劇場を「1810年からオデーサで活動する、ウクライナで最も古いオペラ劇場」と説明しています。
オリュカのひとこと
焼けた劇場から、いまの建物までの道のりはどうだったのでしょう。この年表で確かめられます。
年表:焼けた劇場から、いまの建物まで
| 年 | 出来事 | 典拠 |
|---|---|---|
| 1804〜1809年 | 最初の劇場の建物を建てる(設計 トマ・ド・トモン) | ЕІУ |
| 1810年2月10日 | 市立劇場で最初の上演の季節が始まる | ЕСУ(IEUは設立を1810年とする) |
| 1873年 | 火事で劇場の建物が焼ける | ЕСУ・ЕІУ・IEU |
| 1883〜1887年、または1884〜1887年 | いまの建物を建てる(設計 フェルディナント・フェルナーとヘルマン・ヘルマー) | IEUは1883〜1887年、ЕІУは1884〜1887年 |
| 1887年10月1日 | 新しい建物で上演の季節を始める | ЕСУ |
| 1900年 | 建物の東側が18センチ沈んだことが記録される | ЕІУ |
| 1926年 | ウクライナのオペラ劇場として組織し直され、国の(державний)アカデミー劇場になる | ЕІУ・ЕСУ・IEU |
| 1956年 | 土台の下に液体ガラスを20トン以上注入 | ЕІУ |
| 1965〜1967年 | 大規模な修復 | ЕСУ(IEUは1965〜1966年) |
| 1996〜2007年 | 大規模な修復(ЕІУは、1998年の内閣の決定のあと工事が2002年まで続いたとする) | ЕСУ・ЕІУ |
| 2007年 | 「ナショナル」(національний)の地位を得る | ЕСУ |
| 2023年 | オデーサの歴史地区がユネスコの世界遺産と危機遺産に記載される | ユネスコ世界遺産センター |
1873年の火事と、ウィーンの建築家
ЕСУ・ЕІУ・IEUは、最初の劇場が1873年の火事で焼けたことで一致しています。新しい劇場を設計したのは、ウィーンのフェルディナント・フェルナー(Ferdinand Fellner)とヘルマン・ヘルマー(Hermann Helmer)の事務所です。ЕІУによれば、実際の図面はオデーサの建築家オレクサンドル・ベルナルダッツィらの監督のもとで描かれました。
ЕІУは、焼けた劇場のあとだったため、建築家は当時できるかぎりの火災への備えを求められ、観客と職員のための出口が23か所設けられた、と書いています。ЕСУは、この劇場をノヴォロシアで最初の劇場、黒海の南の沿岸で初めて電気と蒸気の設備を備えた建物とし、建設費を150万ルーブルとしています。新しい建物での最初の季節は、ЕСУによれば1887年10月1日に始まりました。
市立劇場から「ナショナル」の劇場へ
劇場の名前は何度か変わっています。
- 昔の呼び名:市立劇場(ЕСУ)、オデーサのロシア・オペラ(ЕІУ)、市立オペラ劇場(IEU)
- 1926年:ウクライナのオペラ劇場として組織し直され、オデーサ国(державний)アカデミー・オペラ・バレエ劇場となる(ЕІУ・ЕСУ)
- 2007年:「ナショナル」(національний)の地位を得て、いまのオデーサ国立アカデミー・オペラ・バレエ劇場(Одеський національний академічний театр опери та балету)となる(ЕСУ)
屋根の上の四頭の豹
ЕСУとЕІУは、建物の飾りをほぼ同じ言葉で説明しています。二階建ての柱廊の上には、悲劇の女神メルポメネが四頭の豹の引く車に乗る像があります。入口の台座には、エウリピデスの悲劇『ヒッポリュトス』とアリストパネスの喜劇『鳥』の場面が刻まれています。バルコニーの両脇には、踊りの女神テルプシコラーが若い者に踊りを教える像と、ケンタウロスのケイローンがアポロンに竪琴を教える像があります。
正面の上の段には、グリボエードフ、プーシキン、ゴーゴリ、グリンカの胸像が半円に並び、ЕСУはそれぞれが劇、詩、喜劇、音楽を表すとしています。客席の天井には、シェイクスピアの作品の場面を描いた四枚の絵がはめこまれています。建物の様式を、ЕІУは「ウィーンのルネサンス」に「ウィーンのバロック」を交えた歴史主義、IEUはウィーンのネオ・ルネサンスと書き、ЕСУは客席を後期フランス・ロココの様式としています。
沈む地盤と、続いた補強の工事
この建物は、完成から間もなく地盤の問題を抱えました。ЕІУによれば、1900年に建物の東側が18センチ沈んだことが記録され、それ以来、補強の工事が繰り返されてきました。1956年には、土台の下に液体ガラスが20トン以上注入されています。
大がかりな修復の時期は、事典によって書き方が違います。ЕСУは1965〜1967年と1996〜2007年の二回、IEUは1926年と1965〜1966年の修復を挙げています。ЕІУは、1998年に内閣が総合的な改修と修復の計画を承認し、市民や国外のウクライナ人からの寄付を集める基金がつくられ、工事が2002年まで続いたと書いています。
舞台に立った人たち
ЕІУとЕСУは、この劇場で指揮をした作曲家として、チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフ、アントン・ルビンシテインらの名前を挙げ、歌手としてフョードル・シャリャーピン、エンリコ・カルーソー、ソロミヤ・クルシェルニツカらの名前を挙げています。クルシェルニツカがオデーサで歌った時期はクルシェルニツカの記事で扱っています。
ウクライナの作品では、ЕІУが、セメン・フラク=アルテモウシキーのオペラ『ドナウの向こうのザポロージェツ』(1936年・1954年)、ミコラ・ルィセンコの『タラス・ブーリバ』(1971年)、ミハイロ・スコルリシキーのバレエ『森の歌』(1963年)の上演を挙げています。ЕІУによれば、1894年から1937年まで音楽監督を務めた指揮者ヨシフ・プリビクが、この劇場の歩みに大きな役割を果たしました。ルィセンコについてはルィセンコの記事、『森の歌』の原作についてはレーシャ・ウクラインカの記事で扱っています。
オリュカ
この劇場を形容する言葉は、どこでも同じなのかな。
タブリ
言い方はいくつかあって、この見出しの下に並んでいるよ。
ヨリクネ
「ヨーロッパで最も美しい」という言い方は、この見出しの下で確かめた資料には無かったみたいだよ。
「最も古い」「最も大きい」は誰の言い方か
この劇場を形容する言葉は、資料によって違います。
- ЕІУ:「ウクライナで最も古く、最も大きいオペラ・バレエ劇場の一つ」
- ВУЕ:「ウクライナで最も古いオペラ劇場」
- ユネスコ:プリモルスキー並木道、ポチョムキンの階段(ユネスコの表記では Prymorsky Stairs)、パレ・ロワイヤルとともに「街の主な目印」
「ヨーロッパで最も美しい劇場の一つ」という言い方もよく見かけますが、この記事で確かめた事典とユネスコの資料には、その言い方はありませんでした。
世界遺産の中の劇場
ユネスコ世界遺産センターによれば、「オデーサの歴史地区」は2023年に世界遺産一覧表と危機遺産リストに同時に記載されました。記載の説明は、プリモルスキー並木道、海岸へ下る階段、オデーサ・オペラ・バレエ劇場の建物群、パレ・ロワイヤルを街の主な目印としています。記載の経緯はウクライナの街と世界遺産の記事で、オデーサという街の成り立ちはオデーサの始まりの記事で扱っています。
出典と記事の記録
出典・参考資料
- Одеський національний академічний театр опери та балету1810年2月10日の最初の季節、1811年からの劇団、1820〜50年代のイタリア・オペラ、1821年の『セビリアの理髪師』、1873年の火事、1887年の建物とフェルナー&ヘルマー事務所、正面と内部の彫刻・胸像・天井画、客席の様式、電気と蒸気の設備、建設費150万ルーブル、1887年10月1日の季節の始まり、1926年、1965〜67年と1996〜2007年の修復、2007年の「ナショナル」の地位、出演者。執筆 Л. В. Нейчева、2022年
発行:Енциклопедія Сучасної України(Інститут енциклопедичних досліджень НАН України) 確認日:2026-09-27 - ОДЕСЬКИЙ НАЦІОНАЛЬНИЙ АКАДЕМІЧНИЙ ТЕАТР ОПЕРИ ТА БАЛЕТУ「最も古く最も大きい劇場の一つ」、1926年の設立、1809年のロシア・オペラ、1804〜09年のトマ・ド・トモンの建物、1873年の火事、1884〜87年のフェルナーとヘルマー、地元の建築家、23の出口、様式、彫刻と胸像、出演者、プリビク〔1894〜1937年〕、上演作品、1900年の18センチの沈下、1956年の液体ガラス、1998年の内閣の決定と2002年までの工事。執筆 Ф. Самойлов、第7巻、2010年
発行:Енциклопедія історії України(Інститут історії України НАН України) 確認日:2026-09-27 - Odesa Opera and Ballet Theater1926年の設立と1810年の市立オペラ劇場。紙版は1993年の第4巻
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27 - Odesa1873年の焼失と1883〜87年の再建、1810年の劇場、フェルナーとヘルマーのウィーン・ネオ・ルネサンス様式、1926年と1965〜66年の修復、1926年のウクライナ・オペラ劇場
発行:Internet Encyclopedia of Ukraine(Canadian Institute of Ukrainian Studies) 確認日:2026-09-27 - Одеський національний академічний театр опери та балету「1810年からオデーサで活動する、ウクライナで最も古いオペラ劇場」
発行:Велика українська енциклопедія(Державна наукова установа «Енциклопедичне видавництво») 確認日:2026-09-27 - The Historic Centre of Odesa2023年の記載と危機遺産、記載の説明にある「街の主な目印」
発行:UNESCO World Heritage Centre 確認日:2026-09-27
記載内容に誤りを見つけた場合は、訂正のご連絡からお知らせください。確認のうえ、訂正した内容と経緯を記事に記載します。









